銅像記事の一覧です

2010年3月(床次竹二郎)

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2010年3月 床次竹二郎(鹿児島市中央町)

201003

1866(慶応2)~1935(昭和10)年。薩摩藩士・床次正精の長男として新照院に生まれる。1890年、東京帝国大を卒業後は官僚として徳島県知事、内務省地方局長などを歴任。原敬に能力を評価され1911年に内務次官となる。

1913(大正2)年に同郷の山本権兵衛内閣が誕生すると、鉄道院総裁に就任。幹線鉄道の広軌化計画をやめ、地方路線の拡張を優先。日本の鉄道の線路幅を狭軌(幅1067mm)から、欧州などで広く採用されている標準軌(1453mm)へのいち早い統一や、東海道本線など完成による輸送力確保などに尽力した。

1914年に山本内閣が倒れると政界に転じ、衆議院議員を連続8期20年務めた。

1918年成立の日本初の本格的な政党内閣・原敬総理のもとで内務大臣と鉄道院総裁に就任。

1931年に犬養毅内閣で鉄道大臣を務め、翌年に鉄道弘済会の設立に尽くした。

1935年、岡田啓介内閣の逓信大臣在任中に死去。

1978年、当時の国鉄総裁・高木文雄(1976~83年在任)の書による銘板とともに、西鹿児島駅前広場で除幕された。

九州新幹線全線開通、新大阪直通「さくら」の運行開始まで1年を切ろうとしている。鉄道敷設に尽力した床次は、鹿児島中央駅東口の一角からその日を待ち続けているようにみえる。

2010年2月(島津忠義)

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2010年2月 島津忠義(鹿児島市照国町)

201002

1840(天保11)~1897(明治30)年。島津久光の長男として生まれる。

1858(安政5)年、伯父にあたる島津斉彬の遺言をうけて12代藩主の座につく。

その後、大久保一蔵(利通)を筆頭に下級武士の面々は誠忠組を名乗ることを許され、小松帯刀ら上級武士と団結して幕政改革・倒幕維新へとむかう契機をもたらしたといえる。

1863(文久3)年、薩英戦争で被害をうけた集成館事業の再建に取り組み、1865(慶応元)年に洋式の機械工場を操業(現・尚古集成館本館)。

1867(慶応3)年には日本初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所をおこす。15代将軍徳川慶喜が大政奉還した後、議定についた。

1869(明治2)年、小松帯刀らの進言を受けるかたちで版籍奉還をおこなう。また、同年には新政府への参加要請を拒み続ける西郷を日当山温泉に訪ね、藩参事、そして新政府参議就任への道筋をひらいた。

西南戦争後、県内産業や経済の不振を打開するには、近代教育制度の定着が重要と考え、1884(明治17)年に「造士館再建の願」を提出し、私財を県に寄付。同年12月に県内初の中学校・県立中学造士館が開校した。

2010年1月(大久保利通)

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2010年1月 大久保利通(鹿児島市西千石町)

201001

1830(文政13)~1878(明治11)年、鹿児島城下の最下級士分(御小姓与)の生まれ。

島津斉彬の死後、藩の実権をにぎった久光に抜擢され、1863(文久3)年には最高幹部の側役につく。

薩英戦争後の和平交渉、薩摩藩留学生の英国派遣、薩長同盟締結、王政復古の大号令による明治新政府の樹立と、幕末維新期の最前線で奔走した。表舞台には盟友の西郷がたち、大久保は実務に徹し、戊辰戦争や廃藩置県といった難局を乗り切った。

西南戦争直前、西郷が参加していることを知ると、直接会談しようと鹿児島行きを臨むが、伊藤博文らに反対され叶わなかった。

いわゆる征韓論で多くの鹿児島士族たちが政府を去るなか、参議兼内務卿として西郷従道や川路利良らとともに新政府の中枢で内政の充実に腐心した。

1876年、福島県郡山を見聞。

1878年3月、猪苗代湖から導水する安積(あさか)開拓を国営開拓第1号事業と決した2か月後、東京紀尾井坂で暗殺される。

1889年、士族授産と殖産興業を礎に富国強兵を図った利通の顕彰碑が建てられ、別名・大久保神社とよばれている。

1979年、中村晋也氏の制作で没後百年を記念して置かれた。

フロックコートが風に揺れる姿をした像の足もとには、同じく遭難した馬車夫と馬のオブジェがある。

2009年12月(ザビエルとヤジロウ、ベルナルド)

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2009年12月 ザビエルとヤジロウ、ベルナルド(鹿児島市東千石町)

200912

ザビエル(1506~1552)は、スペイン生まれ。

16世紀の欧州は宗教革命が起こり、プロテスタント(新教)が誕生し、カトリック(旧教)は新たな布教活動の地を求めアジアに進出を図った。

1547年、ザビエルはマラッカで日本人のヤジロウ(1511?~50?)と出会う。

彼は、もともと南蛮貿易に従事していたと考えられる。

日本での信者獲得をめざし彼の故郷・鹿児島に向かい、1549(天文18)年8月に稲荷川河口の祇園之洲に到着した。

15代当主の島津貴久から布教活動を許され、福昌寺の忍室住職と宗教論争をおこなうなど約1年、鹿児島に滞在した。

ザビエルは、その間に自ら創設したイエズス会の会員に書簡を送っている。

「彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がない。他の何ものよりも名誉を重んじる。大部分は貧しいが、武士もそうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていない。」(参照:岩波文庫『聖フランシスコ・ザビエル書簡抄』)。

ここに登場する日本人とは鹿児島の人々のことである。

京都や豊後をへて、1552年に離日し中国での布教を試みるが志半ばで病没。

彼に同行していたのが、薩摩出身のベルナルド(?~1557;本名不詳)である。翌年ポルトガルの首都リスボンに到着し、そこから北へ約200km離れたコインブラの修道院で生活した。

1555年にはローマ法王・パウルス4世と謁見した。彼は、欧州の地をふんだ初の日本人である。

1999年10月、日本へのキリスト教伝来450周年を記念してザビエルら3名の像が建てられた。

2009年11月(菅実秀と西郷隆盛)

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2009年11月 菅実秀と西郷隆盛(鹿児島市武2丁目)

200911

鹿児島市と山形県鶴岡市の兄弟都市締結がなされて、今月(2009年11月)でちょうど40年になる。

鹿児島市電にも「鶴岡号」が走り、青少年交流など活発におこなわれている。

そのきっかけをつくったのが、鶴岡のある庄内藩の重臣・菅実秀[1830(文政13)~1903(明治36)年]と西郷隆盛[1827(文政10)~1877(明治10)]である。

戊辰戦争では、薩摩と庄内は新政府軍と旧幕軍の敵対関係にあった。

実秀は庄内藩軍事掛となり、1868年9月に降伏後の処理にあたる。

隆盛は庄内に直接出征しており、厳しい処分をくだすとみられていた。ところが、同郷の黒田清隆に寛大な処分にとどめるよう指示した。

1869年、実秀は清隆と面会したときに初めて戦火を交えず寛大な措置の命令が隆盛からだされたことを知る。

2年後、2人は初めて対面をはたし、1875年には旧藩士7名と武の西郷屋敷を訪れている。

また、隆盛の試みた士族救済策(吉野台地の開墾など)を参考に、酒田県権大参事となった実秀は1872年に養蚕業の振興による士族授産策を推進し、現在の鶴岡市羽黒町に松ヶ岡開墾場を拓き、約3千人が汗を流した。

1877年、西南の役で隆盛は賊軍となり最後は城山の露と消えた。

それでも、実秀ら庄内の人びとは彼の徳を慕いつづけた。

1890年、実秀は『南洲翁遺訓』を刊行し、隆盛の人徳をひろく知らしめることとなった。

鶴岡市には南洲神社があり、その一角に武の西郷屋敷にあるもの(1991年建立)と同じ形の2人の像がたてられている。

2009年10月(五代友厚)

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2009年10月 五代友厚(鹿児島市泉町)

200910

1835(天保6)~1885(明治18)年。鹿児島城下の城ヶ谷(現在の長田町)に生まれる。

父は藩の儒官で『三国名勝図会』を編纂した五代秀堯。

13歳のとき、島津斉彬から依頼された世界地図の模写を父に代わっておこない地球儀を作り、世界情勢への関心をより高めることになった。

1857(安政4)年、長崎へ赴き、幕府が設けた海軍伝習所に学ぶ。

その間、岩崎弥太郎、坂本龍馬、高杉晋作をはじめ、亀山社中の援助に努めた家老・小松帯刀など藩内外の人びとと親交を深めた。

1865(慶応元)年、寺島宗則(のち外務大臣)らと欧州派遣留学生として蒸気船や紡績機械を購入し翌年帰国。

長崎で薩摩藩の商事業務を統括する御小納戸奉行格となり、グラバーや岩崎、小松の支援をうけ1868(明治元)年に長崎港の一角に日本初の洋式ドッグを竣工した。

長崎市小菅町の入り江に、曳揚機械の置かれた赤煉瓦製の倉庫や海に伸びるレール等が残されている。

この地は、今年1月に世界文化遺産の暫定リスト入りした「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成遺産のひとつに数えられている。

その後実業界に転じ、1878(明治11)年に大阪株式取引所を創設、同年、大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)の創設および初代会頭として商標条例の施行や鉄道敷設など大坂経済の衰退防止に努め、「大阪の恩人」と呼ばれた。

大阪商工会議所、大阪証券取引所にも銅像がある。

2009年9月(島津斉彬)

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2009年9月 島津斉彬(鹿児島市照国町)

200909

1809(文化6)~1858(安政5)年。

10代藩主・斉興の嫡男として江戸薩摩藩邸に生まれる。

曾祖父・重豪とともに1826(文政9)年にシーボルトと会見するなど、海外の情報や技術に深い関心をもつ。

斉彬が藩主の座につくのは1851(嘉永4)年と遅く、その間に藩内ではモリソン号事件、隣国ではアヘン戦争と外国の脅威が迫っていた。

彼は日本を西欧に対抗できる国にするべきと唱え、紡績・電信・印刷・パンの製造から軍艦・大砲・紡績と在来技術に西洋技術を導入した近代化を推進した。

それらを磯地区にまとめて操業を開始したものを集成館事業とよぶ。

軍事用のアルコールを米焼酎の転用から芋焼酎の大量生産に切り替えたり、薩摩切子や白薩摩を製品化したりと、殖産興業の幅広い分野に力を注いだ。

1858(安政5)年、次期将軍に一橋慶喜を推すものの大老・井伊直弼は徳川慶福(家茂)を推し反対派を弾圧した(安政の大獄)。これに対し、約5千の兵を率いて上洛を計画。しかし、7月8日に天保山調練場での演習観覧中に高熱で倒れ、16日に急逝した。

『島津斉彬言行録』に「君たる人は愛憎なきを専要とするものなり」とある。

お由羅騒動の際に反斉彬派の立場にいた家臣に報復人事をおこなわず、さらに最下級の城下士分である西郷吉之助や大久保正助らを見出したことを裏づける一節である。

斉彬の遺志は、弟の久光や家臣たちに引き継がれ、明治維新の原動力となった。

2009年8月(川路利良)

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2009年8月 川路利良(鹿児島市鴨池新町)

200908

1834(天保5)~1879(明治12)年。

鹿児島城下近在の比志島村(現在の鹿児島市皆与志町)に生まれる。

1864(元治元)年、京都禁門の変での活躍で西郷吉之助に見出され、3年後に兵具隊長となる。

1871(明治4)年、西郷に同行して東京に赴き、明治新政府の安定化を図るために警察制度の確立に従事した。

翌年9月から1年間、西郷の推薦をうけて欧州を視察し、帰国後、警察制度改正についての建白書を提出した。これをもとに1874年1月に東京警視庁が誕生し、初代大警視(現・警視総監)に就任する。

その前年、いわゆる征韓論に敗れた西郷や江藤新平(初代司法卿)らが下野し、薩摩出身者の官職辞職が続出した。

川路は、自らを見出してくれた西郷に対しては、警察制度の創設と充実こそが恩義に報いることになると新政府にとどまる。

その後は、内務卿となった大久保利通の厚い信任のもと、右大臣岩倉具視の暗殺未遂などの事件解決に奔走する一方、巡査制や交番制度を採用し、巡査の身分を証明する警察手帳の交付をおこなうなど、市民に近い警察のあり方を生涯希求した。

1877年の西南戦争では、抜刀隊を組織し薩軍と対峙した。

1879年1月、再度渡欧するものの病となり、同年10月に死去。

麑城警友会懇談会の尽力で没後50年を記念して1931年に誕生地碑が建立される。

1999年、県警察本部前に本像が建てられたことで、本格的に鹿児島での「名誉回復」がなされたといえよう。

台座に刻まれた「聲(こえ)ナキニ聞キ形無キニ見ル」は、彼の語録をまとめた『警察手眼』にある一節である。

2009年7月(小松帯刀)

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2009年7月 小松帯刀(鹿児島市山下町)

200907

1835(天保6)~1870(明治3)年。

鹿児島城下で喜入領主・肝付兼善の三男として生まれた。

1856(安政3)年、11代藩主・島津斉彬により吉利領主の小松家に入る。斉彬の死後も、藩の実権を握った斉彬の弟・久光にも重用され、1862(文久2)年に家老職に就く。

薩英戦争では英国との戦後処理に手腕を発揮し、薩長同盟では桂小五郎(のちの木戸孝允)と西郷が会談するために奔走。同盟が結ばれたのも京都の小松屋敷である。また、亀山社中の始業にあたり坂本龍馬に長崎で手を貸したのも彼の大きな業績といえる。

帯刀の像は、そんな激動の時代を駆け抜けた彼の生き様を象徴する場面を描写したものである。

1867(慶応3)年、最後の将軍・徳川慶喜が諸大名を京都二条城に集め、大政奉還すべきか意見を求めた。

そのとき、薩摩藩城代家老として出席し、真っ先にその必要性を述べ記帳する姿が、没後120年余りを経て現代によみがえったのだ。

体調の悪化に抗しておこなった大仕事に、藩籍奉還の画策がある。吉利の領地を藩に返還し、薩摩藩は明治天皇に藩籍を返上、他藩も追従した。

新政府では、外国官副知事や玄番頭など、おもに外交の要職を歴任し将来を嘱望された。また、1869年には長崎に日本初の西洋式ドッグを備えた小菅修船場をグラバーや五代友厚とともに建設し、のちに三菱重工長崎に引き継がれる。

1870年、大坂で死去。

1876年に小松家の菩提寺であった園林寺跡に改葬され、その隣に夫人・お近が眠る。

その墓所内には、お近の計らいで帯刀を京都で支えた芸者・琴子の墓もここに移されている。

2009年6月(調所広郷)

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2009年6月 調所広郷(鹿児島市天保山)

200906

1776(安永5)~1849(嘉永元)年、鹿児島城下の最下級士分(御小姓与)の生まれ。12歳で調所家の養子となる。

薩摩藩は、幕藩体制発足時から財政は窮乏していた。とくに、1753年に幕府から命じられた普請事業・木曽三川治水工事と8代藩主・島津重豪による藩校造士館や明時館の創設をはじめとする開明政策で費用は増加の一途をたどる。

1827(文政10)年、重豪と10代藩主・斉興から、調所は唐物貿易での成功の手腕を買われ、藩債500万両の財政再建を命じられた。

彼は、重豪・斉興から全面的な委任を示す朱印状を授かり、大坂商人・浜村孫兵衛らから当面の資金調達の約束を取り付け、本格的に改革に着手した。

収穫の増減に関わらず定率で年貢を納めさせる定免法の徹底、奄美黒糖の増産一辺倒から品質向上と流通方法の改善を進めた。また、500万両を無利子250年賦での償還法を強行した。

1838(天保9)年、62歳で家老になり、ついに1844(弘化元)年には50万両の蓄財に成功した。

社会資本の整備にも力を入れ、新田開発や甲突川を現在の流路へと固定し五大石橋を築く。

美山(苗代川)では南京皿山の創設など窯業振興を図り、朝鮮陶工の人びとは調所の死後に招魂墓を建てその徳を慕った。

1849年、密貿易が老中・阿部正弘らに発覚した責任をとり自死。

彼の成功なしに、次代に続く斉彬の集成館事業や明治維新へと至る薩摩の活躍は生まれなかった。

1998年、甲突川改修の浚渫土砂で誕生した天保山の地に調所の像が建てられた。

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