調所広郷記事の一覧です
1776(安永5)~1849(嘉永元)年、鹿児島城下の最下級士分(御小姓与)の生まれ。12歳で調所家の養子となる。
薩摩藩は、幕藩体制発足時から財政は窮乏していた。とくに、1753年に幕府から命じられた普請事業・木曽三川治水工事と8代藩主・島津重豪による藩校造士館や明時館の創設をはじめとする開明政策で費用は増加の一途をたどる。
1827(文政10)年、重豪と10代藩主・斉興から、調所は唐物貿易での成功の手腕を買われ、藩債500万両の財政再建を命じられた。
彼は、重豪・斉興から全面的な委任を示す朱印状を授かり、大坂商人・浜村孫兵衛らから当面の資金調達の約束を取り付け、本格的に改革に着手した。
収穫の増減に関わらず定率で年貢を納めさせる定免法の徹底、奄美黒糖の増産一辺倒から品質向上と流通方法の改善を進めた。また、500万両を無利子250年賦での償還法を強行した。
1838(天保9)年、62歳で家老になり、ついに1844(弘化元)年には50万両の蓄財に成功した。
社会資本の整備にも力を入れ、新田開発や甲突川を現在の流路へと固定し五大石橋を築く。
美山(苗代川)では南京皿山の創設など窯業振興を図り、朝鮮陶工の人びとは調所の死後に招魂墓を建てその徳を慕った。
1849年、密貿易が老中・阿部正弘らに発覚した責任をとり自死。
彼の成功なしに、次代に続く斉彬の集成館事業や明治維新へと至る薩摩の活躍は生まれなかった。
1998年、甲突川改修の浚渫土砂で誕生した天保山の地に調所の像が建てられた。