西郷隆盛記事の一覧です

2009年11月(菅実秀と西郷隆盛)

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2009年11月 菅実秀と西郷隆盛(鹿児島市武2丁目)

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鹿児島市と山形県鶴岡市の兄弟都市締結がなされて、今月(2009年11月)でちょうど40年になる。

鹿児島市電にも「鶴岡号」が走り、青少年交流など活発におこなわれている。

そのきっかけをつくったのが、鶴岡のある庄内藩の重臣・菅実秀[1830(文政13)~1903(明治36)年]と西郷隆盛[1827(文政10)~1877(明治10)]である。

戊辰戦争では、薩摩と庄内は新政府軍と旧幕軍の敵対関係にあった。

実秀は庄内藩軍事掛となり、1868年9月に降伏後の処理にあたる。

隆盛は庄内に直接出征しており、厳しい処分をくだすとみられていた。ところが、同郷の黒田清隆に寛大な処分にとどめるよう指示した。

1869年、実秀は清隆と面会したときに初めて戦火を交えず寛大な措置の命令が隆盛からだされたことを知る。

2年後、2人は初めて対面をはたし、1875年には旧藩士7名と武の西郷屋敷を訪れている。

また、隆盛の試みた士族救済策(吉野台地の開墾など)を参考に、酒田県権大参事となった実秀は1872年に養蚕業の振興による士族授産策を推進し、現在の鶴岡市羽黒町に松ヶ岡開墾場を拓き、約3千人が汗を流した。

1877年、西南の役で隆盛は賊軍となり最後は城山の露と消えた。

それでも、実秀ら庄内の人びとは彼の徳を慕いつづけた。

1890年、実秀は『南洲翁遺訓』を刊行し、隆盛の人徳をひろく知らしめることとなった。

鶴岡市には南洲神社があり、その一角に武の西郷屋敷にあるもの(1991年建立)と同じ形の2人の像がたてられている。

2011年2月(勝海舟歌碑と常夜灯)

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2011年2月 勝海舟歌碑と常夜灯(鹿児島市上竜尾町)

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1868(慶応4)年旧暦3月15日、西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城の無血開城が果たされた。

これは、世界最大の人口を誇った100万都市・江戸を戦禍から救うこととなった。

「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」

この歌は、会談をきっかけに親交の深かった西郷の死を悼み勝が詠んだものである。

旧鹿児島城下が60年ぶりの大雪に見舞われた1877(明治10)年2月15日、薩軍の一番大隊が鹿児島私学校横の練兵場を出発し、西南の役が始まった。勝は、結果として私学校生徒らに身を委ねる形で同年9月24日に城山の露と消えた西郷の心境を、この31文字に凝縮させたといっても過言ではないだろう。

1939(昭和14)年5月、東京市は西郷の決断がのちの「大東京殷盛(いんせい)の基」になったとして、感謝の意を表すため鹿児島市に常夜灯を贈った。

歌碑とも素材は鹿児島に豊富な溶結凝灰岩の一種である花棚石で、西郷を祀る南洲神社・南洲墓地(浄光明寺墓地)の一角に建てられている。敷地を接して、西郷南洲顕彰館があり、西郷の直筆書幅や遺品、西南の役に関する実物資料(銃弾や旗など)を見学できる。

2011年4月(西郷隆盛像)

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2011年4月 西郷隆盛像(鹿児島市城山町)

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1937(昭和12)年5月23日、西郷隆盛銅像の除幕式が挙行された。

没後50年を記念して建立が決まり、市内新屋敷町出身の彫刻家で忠犬ハチ公の制作者としても知られる安藤照が手がけた。

ちなみに東京の上野公園にある西郷像は高村光雲の作で、1898(明治31)年に一足早く完成している。

この西郷像は、愛犬を連れうさぎ狩りに出かける姿をしているが、鹿児島の像は初代陸軍大将の正装をしている。

一時、西南戦争の賊将であり朝敵とされるも、1889年の明治憲法発布によりその名誉は回復されていたが、郷土での軍服姿による像の誕生こそ、まさしく西郷の存在が維新の三傑としての地位を不動のものとしたと位置づけられよう。

1928年、東郷平八郎が安藤に像の制作を依頼する。

西郷の身体的特徴の把握を試みたり、銅像の研究のために渡欧したりするなど、完成までに8年の歳月を要した。

土台となる高さ約7mの築山には、根占から運ばれた150個の花崗岩が配置され、背景となる城山と調和するよう工夫が施されている。

戦時中に金属供出の対象となる話題があがったとき、市民による猛反対の声が巻き起こり、消失の難を免れ現在に至っている。