産業遺産記事の一覧です
高麗橋, 鹿児島, 産業遺産, 石橋公園, 岩永三五郎, 玉江橋, 西田橋
江戸末期、肥後の石工・岩永三五郎の手で5つの石橋が甲突川に架けられ、五大石橋の名で親しまれた。
特に西田橋は、参勤交代路にあたることから他の橋にはない楼門が設けられ、また、丸柱や二重アーチに見せる等の技法を駆使した姿は、三五郎の造った石橋の中でも最高傑作といわれた。
しかし1993(平成5)年8月6日の水害で新上橋と武之橋が流失してしまい、2000(平成12)年、玉江橋・西田橋・高麗橋が移設復元され新たな都市公園が誕生した。
この地にはかつて重富と今和泉の両島津家の下屋敷があった。
1847(弘化4)年、今和泉本邸前には10代藩主・斉興により砲術館が設けられ、この喧騒を避けるために篤姫も幼少の頃は下屋敷で過ごすことが多かったという。
「天保城下絵図」をみると、今の石橋公園の南に隣接して、歌舞伎を演じた芝居小屋や弁財天廟がある鹿児島港の賑わう様子が伝わってくる。十代半ばの篤姫も観劇や参詣に繰り出したのだろう。
1863(文久3)年に薩英戦争が起こると、稲荷川左岸河口に祇園之洲砲台が置かれ、戦いの前線地となった。その様子を伝える「英艦入港戦争図」は、藩の御用絵師・柳田龍雪が今和泉島津家下屋敷で描いたもの。
大河ドラマ「篤姫」で西田橋はロケ地の1つとなり、篤姫ゆかりの憩いの空間としても知られるようになった。
1930年代、市営飛行場(のちの旧鹿児島空港)・中央市場の建設・天保山橋の架橋など、近代都市・鹿児島のインフラ整備は急速に進んだ。
戦後も長く活用されたこれらの起草をしたのが、当時の岩元禧(いわもと き)市長である。
市庁舎本館の竣工もその1つであった。
1889(明治22)年の市制施行の際、役所は旧県興業館に開設され、3年後に現在の市立美術館の地に新築移転した。
その後、大正末から老朽化による庁舎新築が議論されるようになっていたが、世界恐慌などで進まない計画を岩元市長が着工に漕ぎ着け、1937年に竣工した。
設計したのは国会議事堂の建設にも携わった大蔵省営繕管理局の技師。
市会議場は当時のまま残り、現在は講堂として利用されている。
火事の発生地点をいち早く知るために、塔屋には消防関係者が詰めていた。また、将来の増床を見越した設計を採っていたため、1959年に3階部分を増築して現在の姿になった。
この敷地は幕末には藩の米蔵・金蔵が置かれていた。
西南戦争の末期には政府軍の屯営地となり、山県有朋が薩軍への最後の総攻撃指令を出した。
本館の敷地裏手に「明治十年戦役官軍屯営地跡」の碑がひっそりと建つ。
士族授産施設や専売局が置かれていたこともある。
鹿児島の産業史にとりわけ中心的な役割を果たしてきた土地といえる。