小松帯刀記事の一覧です
1835(天保6)~1870(明治3)年。
鹿児島城下で喜入領主・肝付兼善の三男として生まれた。
1856(安政3)年、11代藩主・島津斉彬により吉利領主の小松家に入る。斉彬の死後も、藩の実権を握った斉彬の弟・久光にも重用され、1862(文久2)年に家老職に就く。
薩英戦争では英国との戦後処理に手腕を発揮し、薩長同盟では桂小五郎(のちの木戸孝允)と西郷が会談するために奔走。同盟が結ばれたのも京都の小松屋敷である。また、亀山社中の始業にあたり坂本龍馬に長崎で手を貸したのも彼の大きな業績といえる。
帯刀の像は、そんな激動の時代を駆け抜けた彼の生き様を象徴する場面を描写したものである。
1867(慶応3)年、最後の将軍・徳川慶喜が諸大名を京都二条城に集め、大政奉還すべきか意見を求めた。
そのとき、薩摩藩城代家老として出席し、真っ先にその必要性を述べ記帳する姿が、没後120年余りを経て現代によみがえったのだ。
体調の悪化に抗しておこなった大仕事に、藩籍奉還の画策がある。吉利の領地を藩に返還し、薩摩藩は明治天皇に藩籍を返上、他藩も追従した。
新政府では、外国官副知事や玄番頭など、おもに外交の要職を歴任し将来を嘱望された。また、1869年には長崎に日本初の西洋式ドッグを備えた小菅修船場をグラバーや五代友厚とともに建設し、のちに三菱重工長崎に引き継がれる。
1870年、大坂で死去。
1876年に小松家の菩提寺であった園林寺跡に改葬され、その隣に夫人・お近が眠る。
その墓所内には、お近の計らいで帯刀を京都で支えた芸者・琴子の墓もここに移されている。