鹿児島記事の一覧です
1809(文化6)~1858(安政5)年。
10代藩主・斉興の嫡男として江戸薩摩藩邸に生まれる。
曾祖父・重豪とともに1826(文政9)年にシーボルトと会見するなど、海外の情報や技術に深い関心をもつ。
斉彬が藩主の座につくのは1851(嘉永4)年と遅く、その間に藩内ではモリソン号事件、隣国ではアヘン戦争と外国の脅威が迫っていた。
彼は日本を西欧に対抗できる国にするべきと唱え、紡績・電信・印刷・パンの製造から軍艦・大砲・紡績と在来技術に西洋技術を導入した近代化を推進した。
それらを磯地区にまとめて操業を開始したものを集成館事業とよぶ。
軍事用のアルコールを米焼酎の転用から芋焼酎の大量生産に切り替えたり、薩摩切子や白薩摩を製品化したりと、殖産興業の幅広い分野に力を注いだ。
1858(安政5)年、次期将軍に一橋慶喜を推すものの大老・井伊直弼は徳川慶福(家茂)を推し反対派を弾圧した(安政の大獄)。これに対し、約5千の兵を率いて上洛を計画。しかし、7月8日に天保山調練場での演習観覧中に高熱で倒れ、16日に急逝した。
『島津斉彬言行録』に「君たる人は愛憎なきを専要とするものなり」とある。
お由羅騒動の際に反斉彬派の立場にいた家臣に報復人事をおこなわず、さらに最下級の城下士分である西郷吉之助や大久保正助らを見出したことを裏づける一節である。
斉彬の遺志は、弟の久光や家臣たちに引き継がれ、明治維新の原動力となった。
1834(天保5)~1879(明治12)年。
鹿児島城下近在の比志島村(現在の鹿児島市皆与志町)に生まれる。
1864(元治元)年、京都禁門の変での活躍で西郷吉之助に見出され、3年後に兵具隊長となる。
1871(明治4)年、西郷に同行して東京に赴き、明治新政府の安定化を図るために警察制度の確立に従事した。
翌年9月から1年間、西郷の推薦をうけて欧州を視察し、帰国後、警察制度改正についての建白書を提出した。これをもとに1874年1月に東京警視庁が誕生し、初代大警視(現・警視総監)に就任する。
その前年、いわゆる征韓論に敗れた西郷や江藤新平(初代司法卿)らが下野し、薩摩出身者の官職辞職が続出した。
川路は、自らを見出してくれた西郷に対しては、警察制度の創設と充実こそが恩義に報いることになると新政府にとどまる。
その後は、内務卿となった大久保利通の厚い信任のもと、右大臣岩倉具視の暗殺未遂などの事件解決に奔走する一方、巡査制や交番制度を採用し、巡査の身分を証明する警察手帳の交付をおこなうなど、市民に近い警察のあり方を生涯希求した。
1877年の西南戦争では、抜刀隊を組織し薩軍と対峙した。
1879年1月、再度渡欧するものの病となり、同年10月に死去。
麑城警友会懇談会の尽力で没後50年を記念して1931年に誕生地碑が建立される。
1999年、県警察本部前に本像が建てられたことで、本格的に鹿児島での「名誉回復」がなされたといえよう。
台座に刻まれた「聲(こえ)ナキニ聞キ形無キニ見ル」は、彼の語録をまとめた『警察手眼』にある一節である。
1835(天保6)~1870(明治3)年。
鹿児島城下で喜入領主・肝付兼善の三男として生まれた。
1856(安政3)年、11代藩主・島津斉彬により吉利領主の小松家に入る。斉彬の死後も、藩の実権を握った斉彬の弟・久光にも重用され、1862(文久2)年に家老職に就く。
薩英戦争では英国との戦後処理に手腕を発揮し、薩長同盟では桂小五郎(のちの木戸孝允)と西郷が会談するために奔走。同盟が結ばれたのも京都の小松屋敷である。また、亀山社中の始業にあたり坂本龍馬に長崎で手を貸したのも彼の大きな業績といえる。
帯刀の像は、そんな激動の時代を駆け抜けた彼の生き様を象徴する場面を描写したものである。
1867(慶応3)年、最後の将軍・徳川慶喜が諸大名を京都二条城に集め、大政奉還すべきか意見を求めた。
そのとき、薩摩藩城代家老として出席し、真っ先にその必要性を述べ記帳する姿が、没後120年余りを経て現代によみがえったのだ。
体調の悪化に抗しておこなった大仕事に、藩籍奉還の画策がある。吉利の領地を藩に返還し、薩摩藩は明治天皇に藩籍を返上、他藩も追従した。
新政府では、外国官副知事や玄番頭など、おもに外交の要職を歴任し将来を嘱望された。また、1869年には長崎に日本初の西洋式ドッグを備えた小菅修船場をグラバーや五代友厚とともに建設し、のちに三菱重工長崎に引き継がれる。
1870年、大坂で死去。
1876年に小松家の菩提寺であった園林寺跡に改葬され、その隣に夫人・お近が眠る。
その墓所内には、お近の計らいで帯刀を京都で支えた芸者・琴子の墓もここに移されている。
1776(安永5)~1849(嘉永元)年、鹿児島城下の最下級士分(御小姓与)の生まれ。12歳で調所家の養子となる。
薩摩藩は、幕藩体制発足時から財政は窮乏していた。とくに、1753年に幕府から命じられた普請事業・木曽三川治水工事と8代藩主・島津重豪による藩校造士館や明時館の創設をはじめとする開明政策で費用は増加の一途をたどる。
1827(文政10)年、重豪と10代藩主・斉興から、調所は唐物貿易での成功の手腕を買われ、藩債500万両の財政再建を命じられた。
彼は、重豪・斉興から全面的な委任を示す朱印状を授かり、大坂商人・浜村孫兵衛らから当面の資金調達の約束を取り付け、本格的に改革に着手した。
収穫の増減に関わらず定率で年貢を納めさせる定免法の徹底、奄美黒糖の増産一辺倒から品質向上と流通方法の改善を進めた。また、500万両を無利子250年賦での償還法を強行した。
1838(天保9)年、62歳で家老になり、ついに1844(弘化元)年には50万両の蓄財に成功した。
社会資本の整備にも力を入れ、新田開発や甲突川を現在の流路へと固定し五大石橋を築く。
美山(苗代川)では南京皿山の創設など窯業振興を図り、朝鮮陶工の人びとは調所の死後に招魂墓を建てその徳を慕った。
1849年、密貿易が老中・阿部正弘らに発覚した責任をとり自死。
彼の成功なしに、次代に続く斉彬の集成館事業や明治維新へと至る薩摩の活躍は生まれなかった。
1998年、甲突川改修の浚渫土砂で誕生した天保山の地に調所の像が建てられた。
1704(宝永元)~1755(宝暦5)年。鹿児島城下の上級家臣の家に生まれた。
20代を江戸の薩摩藩邸で過ごし、のちに家老職にすすむ。
1753年、薩摩藩は幕府から「濃州・勢州・尾州川々」の普請事業を命じられた。すでに66万両の借金があり、さらに工費の40万両を準備する必要があった。
平田は財務担当の勝手方家老であったことから、治水工事の総奉行に就任する。
上方商人に黒糖の専売権を担保にした融資を受け、また藩内の倹約や増税で資金を調達し着手した。
木曽三川と呼ばれる木曽・長良・揖斐川は大雨のたびに氾濫していた。つまり梅雨や台風による洪水発生の時季を避け、作業を急ピッチで進める必要がある。
幕府は容易に専門の技術者を雇うことを許さず、工事は難航を極めるも1年半を経て竣工を果たす。
平田は検分を終えた3日後に没。多くの犠牲者を出したことや、予算を大幅に超えた工事の責任を負っての自刃であった。
1900(明治33)年、最難関工区の油島にある千本松原に、山県有朋総理の銘による「宝暦治水之碑」が建てられた。
これを契機に、岐阜で平田の功績を再検証する動きが広まった。
薩摩義士の名付け親は、麻布学館の創始者・岩田徳義。
城山入口にある薩摩義士の碑は1920年に建立され、以降、地元でも平田らの存在が知られるようになった。
1971年、鹿児島と岐阜は姉妹県盟約を締結。平田の事績は両県の活発な交流活動として今も生き続けている。
1835(天保6)~1924(大正13)年、下荒田生まれ。極貧の武士でありながら、島津久光の側近として頭角を現し、長崎では最新式の英国軍艦を半額の8万両で購入。残りの8万両は倒幕後の新政府で準備するという約束で合意し、春日丸と命名。のちに戊辰戦争や明治政府の主力艦として活躍した。
松方が最も知られるのは、近代資本主義確立に尽力した経済政策の数々である。福岡藩による大量の贋札発行を摘発し大久保の信任を高め、地租改正事業を推し進めた。
1881(明治14)年に大蔵卿に就任してからは、西南戦争後のインフレ処理のため、いわゆる「松方デフレ」と呼ばれる不換紙幣の一掃に着手した。翌年日銀を設立し、兌換紙幣である日本銀行券への一本化を断行。深刻なデフレは世論の不評を買ったが、大幅な財政改善につながり、金融の対外的信用や産業資本の成長につながった。
第4、6代総理大臣として内閣を率い、大蔵大臣は松方が兼務し金本位制を採用するなど、「日本の資本主義育ての親」として後世に高く評価されるようになった。
十三男六女あり、八男・正熊の娘であるハルは、エドウィン・O・ライシャワーに嫁いでいる。
2008年6月、生誕地近くの武之橋たもとに(財)米盛誠心育成会の寄附による銅像の除幕式が挙行された。
鹿児島出身の内閣総理大臣は、ほかに明治憲法発布時の黒田清隆、関東大震災後の東京復興を推進した山本権兵衛の2人がいるが、松方正義像が建立の第一号となった。
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