鹿児島記事の一覧です
天文館, おつきや, ぴらも~る, 通り会, 鹿児島, 商店街
天神おつきや商店街振興組合
設立:1976年5月
会員:28名
問い合わせ:099-223-9630
HP:http://www.minc.ne.jp/piramall/
Facebook:https://www.facebook.com/otsukiya/
愛称の「ぴらも~る」は、アーケード中央部の天蓋がピラミッド型であることから。天文館本通りと交差する大きな通りで、約80店舗の多彩な飲食店・物販店が並んでいます。
易居町本通り会
設立:不詳
会員:33名
問い合わせ:099-223-3529(美容室 サロンド・YOU)
鹿児島港桜島桟橋の近くにあり、みなと大通り公園から桟橋通りへと抜けます。もともとは繊維の問屋街として発展し、現在も衣料品・寝具の店舗が並びます。ほかに食品や雑貨など、暮らしに必要なものはひととおり揃っています。
天文館通り繁華街協同組合
設立:1960年12月
会員:18名
天文館G3アーケードは全長171メートル。「天文館通」電停の南側へのび、天文館のシンボル的な通りのひとつです。昔から娯楽が集中するエリアで、鹿児島を代表する繁華街となっていきました。
JR伊集院駅から南西に位置する城山公園。桜の季節には山の斜面から頂上付近は無数の桜で埋め尽くされる。頂上にある展望施設に登ると、眼下はまさに桜の絨毯、続いて日置市街地が一望でき、さらにその向こうには桜島の山頂が眺望できる。
標高は約144メートルあり、通称鉄丸山とも呼ばれている。城山公園という名称から察せられるように、戦国期には山城として機能していた。
室町期以前までは一宇治城と呼ばれることが多かったと史料で確認されている。築城に関与したのは伊集院氏で、その後、この城を含む南薩地域は支配権争いが激化する。守護島津氏に限らず薩州家の勢力下に入る時期もあるなど、不安定な状況が続くが、天文5(1536)年3月には、島津忠良と貴久親子が当城を攻撃して回復している。
その後は島津貴久が約14年間、この城を拠点としている。そのために当城には貴久の子である義久や義弘なども入城し生活することになる。彼らの実母である雪窓院の菩提寺は伊集院城下に創建されていて、島津義弘は伊集院を気に入ったのか、この地に建立されている妙円寺を自らの菩提寺としている。
城の規模としては島津貴久の時代には、南北で約600メートル、東西で約650メートルあったとされており、本丸に相当した神明城や釣瓶城、伊作城、南之城などそれぞれに拠点となる曲輪があった。
大規模なそれぞれの平坦地を活用して桜が植えられていて、市民のみならず多くの人々の憩いの場となっている。また、公園駐車場にはザビエルの像もある。島津貴久が当城にあった頃、ザビエルがキリスト教布教のために鹿児島入りしており、その会見の地がこことされている。ただ確定はされておらず各々の研究によって他の候補もあることを申し添えたい。
とはいえ有名なザビエルの物語が花に添えられ、桜の美しさを楽しみながら歴史物語を想像してもよいだろう。広々とした敷地だけに、密にならずに花見散策を楽しんではいかがだろうか。
1866(慶応2)~1935(昭和10)年。薩摩藩士・床次正精の長男として新照院に生まれる。1890年、東京帝国大を卒業後は官僚として徳島県知事、内務省地方局長などを歴任。原敬に能力を評価され1911年に内務次官となる。
1913(大正2)年に同郷の山本権兵衛内閣が誕生すると、鉄道院総裁に就任。幹線鉄道の広軌化計画をやめ、地方路線の拡張を優先。日本の鉄道の線路幅を狭軌(幅1067mm)から、欧州などで広く採用されている標準軌(1453mm)へのいち早い統一や、東海道本線など完成による輸送力確保などに尽力した。
1914年に山本内閣が倒れると政界に転じ、衆議院議員を連続8期20年務めた。
1918年成立の日本初の本格的な政党内閣・原敬総理のもとで内務大臣と鉄道院総裁に就任。
1931年に犬養毅内閣で鉄道大臣を務め、翌年に鉄道弘済会の設立に尽くした。
1935年、岡田啓介内閣の逓信大臣在任中に死去。
1978年、当時の国鉄総裁・高木文雄(1976~83年在任)の書による銘板とともに、西鹿児島駅前広場で除幕された。
九州新幹線全線開通、新大阪直通「さくら」の運行開始まで1年を切ろうとしている。鉄道敷設に尽力した床次は、鹿児島中央駅東口の一角からその日を待ち続けているようにみえる。
1840(天保11)~1897(明治30)年。島津久光の長男として生まれる。
1858(安政5)年、伯父にあたる島津斉彬の遺言をうけて12代藩主の座につく。
その後、大久保一蔵(利通)を筆頭に下級武士の面々は誠忠組を名乗ることを許され、小松帯刀ら上級武士と団結して幕政改革・倒幕維新へとむかう契機をもたらしたといえる。
1863(文久3)年、薩英戦争で被害をうけた集成館事業の再建に取り組み、1865(慶応元)年に洋式の機械工場を操業(現・尚古集成館本館)。
1867(慶応3)年には日本初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所をおこす。15代将軍徳川慶喜が大政奉還した後、議定についた。
1869(明治2)年、小松帯刀らの進言を受けるかたちで版籍奉還をおこなう。また、同年には新政府への参加要請を拒み続ける西郷を日当山温泉に訪ね、藩参事、そして新政府参議就任への道筋をひらいた。
西南戦争後、県内産業や経済の不振を打開するには、近代教育制度の定着が重要と考え、1884(明治17)年に「造士館再建の願」を提出し、私財を県に寄付。同年12月に県内初の中学校・県立中学造士館が開校した。
1830(文政13)~1878(明治11)年、鹿児島城下の最下級士分(御小姓与)の生まれ。
島津斉彬の死後、藩の実権をにぎった久光に抜擢され、1863(文久3)年には最高幹部の側役につく。
薩英戦争後の和平交渉、薩摩藩留学生の英国派遣、薩長同盟締結、王政復古の大号令による明治新政府の樹立と、幕末維新期の最前線で奔走した。表舞台には盟友の西郷がたち、大久保は実務に徹し、戊辰戦争や廃藩置県といった難局を乗り切った。
西南戦争直前、西郷が参加していることを知ると、直接会談しようと鹿児島行きを臨むが、伊藤博文らに反対され叶わなかった。
いわゆる征韓論で多くの鹿児島士族たちが政府を去るなか、参議兼内務卿として西郷従道や川路利良らとともに新政府の中枢で内政の充実に腐心した。
1876年、福島県郡山を見聞。
1878年3月、猪苗代湖から導水する安積(あさか)開拓を国営開拓第1号事業と決した2か月後、東京紀尾井坂で暗殺される。
1889年、士族授産と殖産興業を礎に富国強兵を図った利通の顕彰碑が建てられ、別名・大久保神社とよばれている。
1979年、中村晋也氏の制作で没後百年を記念して置かれた。
フロックコートが風に揺れる姿をした像の足もとには、同じく遭難した馬車夫と馬のオブジェがある。
ヤジロウ, ベルナルド, 銅像, ザビエル公園, 鹿児島, フランシスコ・ザビエル
ザビエル(1506~1552)は、スペイン生まれ。
16世紀の欧州は宗教革命が起こり、プロテスタント(新教)が誕生し、カトリック(旧教)は新たな布教活動の地を求めアジアに進出を図った。
1547年、ザビエルはマラッカで日本人のヤジロウ(1511?~50?)と出会う。
彼は、もともと南蛮貿易に従事していたと考えられる。
日本での信者獲得をめざし彼の故郷・鹿児島に向かい、1549(天文18)年8月に稲荷川河口の祇園之洲に到着した。
15代当主の島津貴久から布教活動を許され、福昌寺の忍室住職と宗教論争をおこなうなど約1年、鹿児島に滞在した。
ザビエルは、その間に自ら創設したイエズス会の会員に書簡を送っている。
「彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がない。他の何ものよりも名誉を重んじる。大部分は貧しいが、武士もそうでない人びとも、貧しいことを不名誉とは思っていない。」(参照:岩波文庫『聖フランシスコ・ザビエル書簡抄』)。
ここに登場する日本人とは鹿児島の人々のことである。
京都や豊後をへて、1552年に離日し中国での布教を試みるが志半ばで病没。
彼に同行していたのが、薩摩出身のベルナルド(?~1557;本名不詳)である。翌年ポルトガルの首都リスボンに到着し、そこから北へ約200km離れたコインブラの修道院で生活した。
1555年にはローマ法王・パウルス4世と謁見した。彼は、欧州の地をふんだ初の日本人である。
1999年10月、日本へのキリスト教伝来450周年を記念してザビエルら3名の像が建てられた。
鹿児島市と山形県鶴岡市の兄弟都市締結がなされて、今月(2009年11月)でちょうど40年になる。
鹿児島市電にも「鶴岡号」が走り、青少年交流など活発におこなわれている。
そのきっかけをつくったのが、鶴岡のある庄内藩の重臣・菅実秀[1830(文政13)~1903(明治36)年]と西郷隆盛[1827(文政10)~1877(明治10)]である。
戊辰戦争では、薩摩と庄内は新政府軍と旧幕軍の敵対関係にあった。
実秀は庄内藩軍事掛となり、1868年9月に降伏後の処理にあたる。
隆盛は庄内に直接出征しており、厳しい処分をくだすとみられていた。ところが、同郷の黒田清隆に寛大な処分にとどめるよう指示した。
1869年、実秀は清隆と面会したときに初めて戦火を交えず寛大な措置の命令が隆盛からだされたことを知る。
2年後、2人は初めて対面をはたし、1875年には旧藩士7名と武の西郷屋敷を訪れている。
また、隆盛の試みた士族救済策(吉野台地の開墾など)を参考に、酒田県権大参事となった実秀は1872年に養蚕業の振興による士族授産策を推進し、現在の鶴岡市羽黒町に松ヶ岡開墾場を拓き、約3千人が汗を流した。
1877年、西南の役で隆盛は賊軍となり最後は城山の露と消えた。
それでも、実秀ら庄内の人びとは彼の徳を慕いつづけた。
1890年、実秀は『南洲翁遺訓』を刊行し、隆盛の人徳をひろく知らしめることとなった。
鶴岡市には南洲神社があり、その一角に武の西郷屋敷にあるもの(1991年建立)と同じ形の2人の像がたてられている。
1835(天保6)~1885(明治18)年。鹿児島城下の城ヶ谷(現在の長田町)に生まれる。
父は藩の儒官で『三国名勝図会』を編纂した五代秀堯。
13歳のとき、島津斉彬から依頼された世界地図の模写を父に代わっておこない地球儀を作り、世界情勢への関心をより高めることになった。
1857(安政4)年、長崎へ赴き、幕府が設けた海軍伝習所に学ぶ。
その間、岩崎弥太郎、坂本龍馬、高杉晋作をはじめ、亀山社中の援助に努めた家老・小松帯刀など藩内外の人びとと親交を深めた。
1865(慶応元)年、寺島宗則(のち外務大臣)らと欧州派遣留学生として蒸気船や紡績機械を購入し翌年帰国。
長崎で薩摩藩の商事業務を統括する御小納戸奉行格となり、グラバーや岩崎、小松の支援をうけ1868(明治元)年に長崎港の一角に日本初の洋式ドッグを竣工した。
長崎市小菅町の入り江に、曳揚機械の置かれた赤煉瓦製の倉庫や海に伸びるレール等が残されている。
この地は、今年1月に世界文化遺産の暫定リスト入りした「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成遺産のひとつに数えられている。
その後実業界に転じ、1878(明治11)年に大阪株式取引所を創設、同年、大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)の創設および初代会頭として商標条例の施行や鉄道敷設など大坂経済の衰退防止に努め、「大阪の恩人」と呼ばれた。
大阪商工会議所、大阪証券取引所にも銅像がある。
新しい投稿ページへ 古い投稿ページへ