銅像記事の一覧です

2009年5月(平田靭負)

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2009年5月 平田靭負(鹿児島市平之町)

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1704(宝永元)~1755(宝暦5)年。鹿児島城下の上級家臣の家に生まれた。

20代を江戸の薩摩藩邸で過ごし、のちに家老職にすすむ。

1753年、薩摩藩は幕府から「濃州・勢州・尾州川々」の普請事業を命じられた。すでに66万両の借金があり、さらに工費の40万両を準備する必要があった。

平田は財務担当の勝手方家老であったことから、治水工事の総奉行に就任する。

上方商人に黒糖の専売権を担保にした融資を受け、また藩内の倹約や増税で資金を調達し着手した。

木曽三川と呼ばれる木曽・長良・揖斐川は大雨のたびに氾濫していた。つまり梅雨や台風による洪水発生の時季を避け、作業を急ピッチで進める必要がある。

幕府は容易に専門の技術者を雇うことを許さず、工事は難航を極めるも1年半を経て竣工を果たす。

平田は検分を終えた3日後に没。多くの犠牲者を出したことや、予算を大幅に超えた工事の責任を負っての自刃であった。

1900(明治33)年、最難関工区の油島にある千本松原に、山県有朋総理の銘による「宝暦治水之碑」が建てられた。

これを契機に、岐阜で平田の功績を再検証する動きが広まった。

薩摩義士の名付け親は、麻布学館の創始者・岩田徳義。

城山入口にある薩摩義士の碑は1920年に建立され、以降、地元でも平田らの存在が知られるようになった。

1971年、鹿児島と岐阜は姉妹県盟約を締結。平田の事績は両県の活発な交流活動として今も生き続けている。

2009年4月(松方正義)

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2009年4月 松方正義(鹿児島市下荒田1丁目)

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1835(天保6)~1924(大正13)年、下荒田生まれ。極貧の武士でありながら、島津久光の側近として頭角を現し、長崎では最新式の英国軍艦を半額の8万両で購入。残りの8万両は倒幕後の新政府で準備するという約束で合意し、春日丸と命名。のちに戊辰戦争や明治政府の主力艦として活躍した。

松方が最も知られるのは、近代資本主義確立に尽力した経済政策の数々である。福岡藩による大量の贋札発行を摘発し大久保の信任を高め、地租改正事業を推し進めた。

1881(明治14)年に大蔵卿に就任してからは、西南戦争後のインフレ処理のため、いわゆる「松方デフレ」と呼ばれる不換紙幣の一掃に着手した。翌年日銀を設立し、兌換紙幣である日本銀行券への一本化を断行。深刻なデフレは世論の不評を買ったが、大幅な財政改善につながり、金融の対外的信用や産業資本の成長につながった。

第4、6代総理大臣として内閣を率い、大蔵大臣は松方が兼務し金本位制を採用するなど、「日本の資本主義育ての親」として後世に高く評価されるようになった。

十三男六女あり、八男・正熊の娘であるハルは、エドウィン・O・ライシャワーに嫁いでいる。

2008年6月、生誕地近くの武之橋たもとに(財)米盛誠心育成会の寄附による銅像の除幕式が挙行された。

鹿児島出身の内閣総理大臣は、ほかに明治憲法発布時の黒田清隆、関東大震災後の東京復興を推進した山本権兵衛の2人がいるが、松方正義像が建立の第一号となった。

2011年4月(西郷隆盛像)

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2011年4月 西郷隆盛像(鹿児島市城山町)

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1937(昭和12)年5月23日、西郷隆盛銅像の除幕式が挙行された。

没後50年を記念して建立が決まり、市内新屋敷町出身の彫刻家で忠犬ハチ公の制作者としても知られる安藤照が手がけた。

ちなみに東京の上野公園にある西郷像は高村光雲の作で、1898(明治31)年に一足早く完成している。

この西郷像は、愛犬を連れうさぎ狩りに出かける姿をしているが、鹿児島の像は初代陸軍大将の正装をしている。

一時、西南戦争の賊将であり朝敵とされるも、1889年の明治憲法発布によりその名誉は回復されていたが、郷土での軍服姿による像の誕生こそ、まさしく西郷の存在が維新の三傑としての地位を不動のものとしたと位置づけられよう。

1928年、東郷平八郎が安藤に像の制作を依頼する。

西郷の身体的特徴の把握を試みたり、銅像の研究のために渡欧したりするなど、完成までに8年の歳月を要した。

土台となる高さ約7mの築山には、根占から運ばれた150個の花崗岩が配置され、背景となる城山と調和するよう工夫が施されている。

戦時中に金属供出の対象となる話題があがったとき、市民による猛反対の声が巻き起こり、消失の難を免れ現在に至っている。

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