2009年3月 石橋記念公園(鹿児島市浜町)

200903

江戸末期、肥後の石工・岩永三五郎の手で5つの石橋が甲突川に架けられ、五大石橋の名で親しまれた。

特に西田橋は、参勤交代路にあたることから他の橋にはない楼門が設けられ、また、丸柱や二重アーチに見せる等の技法を駆使した姿は、三五郎の造った石橋の中でも最高傑作といわれた。

しかし1993(平成5)年8月6日の水害で新上橋と武之橋が流失してしまい、2000(平成12)年、玉江橋・西田橋・高麗橋が移設復元され新たな都市公園が誕生した。

この地にはかつて重富と今和泉の両島津家の下屋敷があった。

1847(弘化4)年、今和泉本邸前には10代藩主・斉興により砲術館が設けられ、この喧騒を避けるために篤姫も幼少の頃は下屋敷で過ごすことが多かったという。

「天保城下絵図」をみると、今の石橋公園の南に隣接して、歌舞伎を演じた芝居小屋や弁財天廟がある鹿児島港の賑わう様子が伝わってくる。十代半ばの篤姫も観劇や参詣に繰り出したのだろう。

1863(文久3)年に薩英戦争が起こると、稲荷川左岸河口に祇園之洲砲台が置かれ、戦いの前線地となった。その様子を伝える「英艦入港戦争図」は、藩の御用絵師・柳田龍雪が今和泉島津家下屋敷で描いたもの。

大河ドラマ「篤姫」で西田橋はロケ地の1つとなり、篤姫ゆかりの憩いの空間としても知られるようになった。