11代藩主・島津斉彬を祀る照国神社境内の北隣に、探勝園がある。
もともとここは鶴丸城二の丸庭園があったところで、城山の傾斜地を利用した滝石組みや池を配置し名園といわれた。
斉彬は、この地を日本初の電信使用の実験場に選んだ。
彼は西洋技術を積極的に取り入れ、軍艦や大砲の製造、薩摩切子や白薩摩焼の工芸品化を推進した。
磯の集成館事業にとどまらず、鶴丸城では自ら写真の撮影に挑戦し、彼自身の肖像写真は現存する日本最古の銀板写真として知られる。
近代化への貪欲な先取の気鋭は、1857(安政4)年、鶴丸城本丸と探勝園の約600m間で、モールス信号による交信をも成功に導いたのである。
現在、二の丸庭園の面影は池泉や石畳の階段に残されている。その一角に、「電信使用ノ地」と刻まれた柱状の石碑がひっそりと建っている。
園内には、1917年に建立され、いずれも戦時中の金属供出を免れた斉彬と弟の久光、最後の藩主となった忠義の三公の銅像がある。
城山を背にし、鹿児島市街地を見守るがごとくの威容を感じさせる。
探勝園は、知る人ぞ知る、わが国の情報通信技術の発祥地である。