かごしま県民交流センターの前庭に、ひときわ目につく石碑がある。
筑後柳川藩藩主立花家に生まれ、最後の一宮藩主(千葉)となった、官選第8代目の鹿児島県知事・加納久宜(ひさよし)(1848~1919)をたたえるもので、1942(昭和17)年に建てられた。
久宜は1894(明治27)年に知事に着任。吏党と民党の間で激しい政争が続く中、「不偏不党」を掲げ、さまざま改革や殖産興業政策を断行した。
特筆すべきは、人材育成の礎となる旧制中学の設立を各地で進めると同時に、義務教育である小学校の就学率を向上させた点である。
1897年に56%(全国平均は64%)だったものを1900年には92%にまで達した。教室におもちゃを置き、子守りをしながら児童が通学できるよう細やかな配慮の結果であった。
更に、農会規則の公布等により水田や品種の変更を行い、米は75%の増収となった。また、柑橘類の栽培奨励、国立九州種馬牧場の誘致などに奔走し、勧業知事の名をほしいままにした。
即時実行を旨とする久宜は、県費の不足分は自費を投じたため、ついには借金2万円に達し、心配した親族や旧家臣の懇願で鹿児島を去った。
遺言は、「鹿児島のことで相談あるときは冥土へ電話せい」であったと伝わる。