現在の鹿児島市街地は、室町時代前期の1341年に守護大名・島津氏が多賀山に東福寺城を築いたことに端を発する。
錦江湾に面した天然の要塞として、水面や甲突川方面の平地を広く見渡すことができ、敵の動きを察知するには格好の地形であった。
1387年に市立清水中学校裏手にあたる清水城に居城が移ったあと、風光明美な行楽地として知られるようになり、近世のいくつかの書物に登場するようになる。
多賀山公園の一帯は、かつて田之浦と呼ばれ、鹿児島八景に数えられた「南林晩鐘、洲崎落雁、開聞暮雪、南浦帰帆、桜島秋月。大磯夕照、田浦夜雨、多賀晴嵐」のいずれも眺望できる景勝の地として、江戸時代から知られていた。
1843年に刊行された薩摩藩の地誌書『三国名勝図会』は、多賀山から城下町方面の眺望を、「薩隅二州の腹に入り、一大内海となり、湖の如し、此浦其西岸に在り、潮来れば江上白く、日落れば天地青し、煙船其間に往来して、頗る趣を資く」と記している。
錦江湾が大きな湖のように視界に飛び込み、陽光が織りなす遠景の色彩変化の美しさ、そのなかを舟が行き交うようすは、時代を経た今日もその面影をとどめている。