古今東西を問わず、水の確保は人びとの生活にとって最優先の課題である。私たちの先人も、シラスなど火山灰土壌のもとで苦労しながら田畑を開き食物を育ててきた。
甲突川の中流にあたる飯山橋から数百メートルさかのぼると、かつて武・田上や荒田方面の田畑を潤した石井手用水路の取水堰があった。
宝暦治水などの普請事業費、島津重豪が勧めた開花政策などで出費がかさみ、17世紀後半の薩摩藩は財政再建が急務となっていた。その一環として、1806(文化3)年に藩は田上川の付け替え工事をおこない、約6.5kmにおよぶ石井手用水と田上川(新川)を接続させて甲突川下流域の右岸に120haの新田が開発されたという。
現在は水路の面影をとどめる箇所はほとんどなくなり暗渠や側溝に姿を変えているが、玉江橋西口交差点に、永吉水車館機織場跡の記念碑が建っている。
11代藩主島津斉彬は、石井手用水路の豊富な水量に注目し、この付近に水車を動力とした機織場を創設した。その碑には「帆布綿絹布等ヲ織ル是レ我國器械織ノ始也」と刻まれており、10年ほど操業したのちここで確立した技術は磯の集成館事業の一部門として花開いた。
取水口の築造物は、8.6水害後の河川改修により1999年に姿を消した。往時の歴史を後世に伝えるべく2008年に取水跡地の記念碑が建てられている。