2021年3月 東郷どんの小路(鹿児島市平之町)

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鹿児島市平之町にある平田公園の東角近くに「東郷殿小路」という石碑が建てられている。

東郷といわれて思い浮かべる人物は多いが、この地に屋敷があったのは薩摩藩弓術指南東郷重持である。

東郷重持のことは、明治10年の西南戦争の際、焼失の危機にあった島津家文書を救い出した人物、といえば覚えのある方もいるであろう。

天保9(1938)年鹿児島城下に生まれ、家は代々続く弓術指南の役であった。また島津斉彬・久光・忠義の側にあり、幕末は国事に関わり、明治17年からは島津家の家令となり、時代を超えて島津家に仕えた人物である。

薩摩藩における日置流(へきりゅう)は薩摩藩初代藩主島津家久が宇喜多秀家家臣・本郷義則を師として学んだことに始まる。

東郷家も日置流の奥義を伝授され、薩摩藩弓術の指南役として以来重持に至る13代が続く。また重持の父実敬は島津斉彬の命により弓術を研究し集団で矢を射る型を創設し、これを腰矢という。重持もまた若くして斉彬の命で父とともに古式射法を研究鍛錬する機会を得ている。

明治以降も重持の腕前は度々天覧の栄誉に与るほどで、その様子を描いた絵が曽山幸彦筆「試鵠」であり、同じ作者の「東郷重持弓術図」が鹿児島県立図書館に所蔵されている。曽山は「今日不要となりし執弓の法式を世人に記憶せしめむとする」ために描いたという。

後年病に倒れた重持であったが、世に忘れ去られようとしていたその技を出水の溝口武夫が学ぶことを請い、これを高弟の日置島津家久明も助け、腰矢の技は受け継がれることになった。日置流腰矢というと出水が有名になった所以である。

明治40年、皇太子が来鹿、磯においてその弟子たちと共に演武が行われた記録があるが、2年後平之町の屋敷地は重持名義でなくなり、さらにその翌年他家に移っているため、重持もその頃に亡くなったことが推測される。

しかしながら受け継がれた腰矢の演武はその後も評価され続け、昭和39年の東京オリンピック、昭和45年の大阪万国博覧会でも披露されている。