令和元年5月に、日本遺産に認定された薩摩の武士が生きた町のひとつに「里麓」がある。
甑島列島の北部に位置する上甑島の東に位置し、玉石垣の美しさが際立つ景観を呈している。最寄りの港である里港は、昨年の8月に中甑島と下甑島の間が架橋されたことによって、さらに島の玄関口的役割を担うようになっている。
里麓に隣接する亀城跡は、鎌倉期より島を統治してきた小川氏が居城であり、江戸期には城下に地頭仮屋が設置された(現在の里小学校)。また、里麓には武家屋敷群だけでなく、津口番所跡もあり、薩摩藩の西海を監視する要所であったとこを静かに伝えてくれている。
藩から派遣される地頭も里麓に居住し、他の地域と異なる管理体制を敷いていた。
そのような地頭仮屋の横には、江戸中期に鞍馬楊心流という武術の免許皆伝を受けた塩田家がある。
鞍馬楊心流には、柔術・剣術・棒術・捕縄術・居合術・忍術などの武芸兵法百般が含まれており、一子相伝の武術である。また、その名前であるが、楊心流の祖である鬼一法眼が鞍馬山において僧正坊の弟子として修業し、のちに牛若丸に伝えたことを起源としているという。
塩田家が受け継ぐようになったのは安永9(1780)年のことで、塩田家の甚太夫が肥前国諫早の中田彦右エ門より免許皆伝を受け、中田家から塩田家への流れとなった。島内での子弟教育はもちろんのこと、塩田家に伝わる血判入門書には、川内・高江・寄田・久見崎・天草・長島などからの入門も確認でき、その数は4000人以上にもなるという。
また、昭和23年には、鹿児島県警察の柔道師範である北畠教真が五代目の塩田甚一郎に師事し、鞍馬楊心流から警察逮捕術を考案している。
里麓における子弟教育には鞍馬楊心流が反映され、亀城跡にあった稽古場がその舞台であったという。里麓の馬場を歩くと、稽古場に向かう武士の子ども達の賑やかな声が聞こえてくるようである。