2020年5月 南林寺墓地由緒墓にある剣豪の墓(鹿児島市南林寺町)

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明治2(1869)年の廃仏毀釈によって廃寺となった寺院のひとつに、南林寺がある。

島津家15代貴久の菩提寺として創建された寺院で、現在は貴久を御祭神として松原神社が寺院のあった場所に鎮座している。

南林寺は、鹿児島城下にあったことから、江戸期に活躍した薩摩藩士らの菩提寺としての役割を担っていた。ただ、墓は大正8(1919)年から市街地の開発によって郊外への移設が推進され、現在は由緒のある方々の墓が一カ所に整理されている。

その中には、薩摩藩を代表する剣豪らの墓もある。今回は、薬丸自顕流に関する人物の墓をご紹介したい。

まずは、薬丸流自顕流の創始者である薬丸兼陣。墓の側面には「薬丸如水 年八十三歳」と刻まれ、正面の文字からは元禄2(1685)年8月5日に亡くなったことが分かる。

薬丸兼陣の祖父は、関ヶ原の戦いなどに従軍した薬丸壱岐守。兼陣は、示現流の創始者である東郷重位に剣術を学び、後に薬丸自顕流の一派を成すようになった。

その兼陣の子である新蔵こと兼福の墓もある。父の始めた自顕流を継ぎ、藩では御兵具奉行を務め、江戸の藩邸にも入っていた。墓には元禄6(1693)年に亡くなったことが記され、父の死とそう遠くない時期に没したことがわかる。

時代は下るが、薬丸家としてはもうひとり兼義の墓がある。兼義は、文化2(1805)年に生まれ、活躍した時期は幕末期である。やはり薬丸流を継いでいることから、門人もたくさんおり、幕末・明治維新期に活躍した人物を数多く輩出している。

生麦事件においてイギリス人の殺傷に関わった海江田信義、寺田屋事件に関わった初代鹿児島県令の大山綱良、江夏仲左衛門、さらに若き東郷平八郎も兼義に剣術を教わったという。

兼義が亡くなったのは明治11(1878)年で、享年74歳であった。

このように南林寺由緒墓は、薬丸自顕流にとってまさに聖地と表現できる場といえる。