桜島の西側は、活発に噴火する南岳の火口から少し距離があることから、桜島では比較的人家が多い地域である。
活動を休止している北岳の裾野には広々とした扇状地が広がり、桜島を代表する小ミカンやビワ、大根などの栽培が盛んに行われている。そしてそうした家々や耕作地の眼前には錦江湾があり、訪れるとなんとも穏やかな印象を受ける。
そのような地域の一つに藤野集落があり、斜面地の途中に立派な屋敷門を有する藤野家がある。藤野家は、自家に伝わる系図によれば、先祖は敏達天皇に連なり、肥後国の藤崎八幡宮に仕えた際に藤崎姓を名乗るようになったとされている。
さらに桜島に居住するようになったのは、藤崎姓を名乗るようになってから三代目となる公頼の時とされ、この公頼は正平12(1357)年の誕生なので、移住時期は南北朝期ということだろう。最初は桜島の湯之村に移住し、子の公紀が藤野村に居住するようになったようである。
こうした名家である藤野家に島津義弘が滞在することになった。慶長6(1601)年の4月5日からのことである。それは関ヶ原の戦いの翌年の出来事であり、徳川家康に対して恭順の意を示すための蟄居であった。
義弘は居館としていた帖佐から桜島に入っている。
前述のように藤崎家の屋敷がある藤野は、背後は山、眼前に海という立地で、蟄居とはいえ義弘も穏やかな時間を過ごすことができたのではないかと想像する。
義弘は藤崎家に6月7日まで留まり、滞在は約2か月間に及んだことになる。屋敷内には、この滞在中に義弘がお手植えをしたと伝わるヤマモモが大きく育っていて、現存している。また後に藩主となる島津光久は、元禄3(1690)年に、この木の下で宴を催したとされている。祖父にあたる義弘を偲んでのことであったにちがいない。
現在の屋敷入口に残る屋敷門は、改修はされているものの義弘が蟄居した当時の面影を伝えているとされ、貴重である。屋敷門前からも見える錦江湾を眺めながら、当時の義弘の胸中に思いを馳せてみてはいかがだろうか。