2019年9月 帖佐八幡神社・平山城跡(姶良市鍋倉)

201909

島津義弘は、文禄4(1595)年に栗野から帖佐に居を移した。

その際居館となった場所は現在稲荷神社が建立されているが、その北東に帖佐八幡神社は位置している。

当社は、かつて新正八幡宮とも呼ばれ、創建は弘安年中(1278~88年)に遡るとされている。御祭神は石清水八幡宮から分霊したとされ、応神天皇や神功皇后などである。

当社のある場所は標高が約125メートルあり、創建当時に地域を治めていた平山氏が城を築き、平山城と称されていた。

戦国期には、幾度となく戦乱の場となり、義弘の祖父である島津忠良や父の貴久も平山城を攻略している。

そして永禄8(1565)年に、義弘の従弟にあたる以久が帖佐地頭となった。当時の城の縄張りを示す曲輪や空堀なども残り、当城の麓に義弘が居館とした帖佐舘がある。

さて、文禄4年に帖佐に移った義弘は、朝鮮出兵に際して八幡神社に戦勝祈願を行い、八流の幡を奉納している。また関ヶ原の戦いに際しては、三十六歌仙額が奉納されている。これは、鎌倉時代に藤原公任によって選ばれた36人の歌仙が歌一首とともに額に描かれたもので、小野小町や在原業平などが歌とともに描かれている。

かつてはこの歌仙絵も神社の拝殿に飾られていたが、保護のために現在は姶良市歴史民俗資料館に保管されている。義弘は、他にも当社の松原浦までの浜下り行事も催行するなど、篤く信仰してようである。

八幡神社には別当寺として増長院もあり、現在の神社の社殿と隣接した場所にあったとされている。ご本尊は阿弥陀如来像で、帖佐郷の祈願所として信仰されたが、現在は廃寺となっている。当寺の住職を務めていた頼雄法印は、朝鮮出兵の際には義弘の陣僧として従軍している。こうした住職らの墓は、八幡神社の駐車所付近に僧侶墓として保存されている。

神社境内は、目を見張るような大銀杏や巨樹が立ち並び、荘厳な雰囲気である。是非、義弘を偲びながら訪れてほしい場所である。