2019年5月 伊集院城(一宇治城)(日置市吹上町)

201905

島津義弘にとって父・貴久の存在は大きかったのではなかろうか。

もちろん、教育面では祖父・忠良の影響も計り知れないものがあると考えるが、やはり義弘が戦国の世を戦い抜くことができた精神的な部分の背景には、父の存在が大きかったように思える。

若き義弘は貴久と行動を共にしている。つまり、父の居城が義弘の居住場所であった。その貴久が、伊作城から伊集院城に居を移したのは、天文14(1545)年のことである。忠良と貴久が、それまで薩州家の島津実久の勢力下にあったこの城を攻略し、入城したのである。

貴久は居城中に城の改修にもあたったとされていて、その当時の城の規模は、南北600メートル・東西650メートル・周囲約2.6キロメートルと広大なものであった。10代までの義弘が居城していた城は、南薩半島全体ににらみを利かすほどの機能を有していたといえそうだ。

現在、伊集院城は城山公園として、まさに市民の憩いの場として整備されている。その公園のなかにザビエルの石像が建立されている。それは、天文18(1549)年にザビエルが鹿児島にキリスト教を伝えるために上陸した際、この城で貴久に対して布教の許可を願い出たとされているからである。当城の本丸にあたる神明城には、会見があったことを記念した石碑も建立されている。

しかし近年様々な検証がされる中で、ザビエルとの会見場所は、清水城(現・霧島市)ではないかとの説も浮上しており、正確な場所は確定されていない。ただ、もし伊集院城をザビエルが訪問していたならば、若き義弘は兄の義久や弟の歳久と共にザビエルと会ったのではと想像が膨らむ。

さて、現在の公園化された城内には、本丸にあたる神明城のほかに伊作城・南之城といった名称の曲輪が形状を保っている。それらの間の堀切なども往時を偲ばせる規模であり、公園内を散策することで山城の雰囲気を十分に楽しむことができる。若き義弘の過ごした城・伊集院城もぜひ訪れていただきたい。