月照は、文化10(1813)年に大坂の町医者である玉井宗江を父として生まれた。
西郷隆盛が生まれた文政10(1827)年に、叔父にあたる京都の清水寺成就院の蔵海に弟子入りする。篤姫や小松帯刀が生まれた天保6(1835)年には叔父の蔵海が亡くなり、成就院の住職になった。
和歌に精通していたことから、近衛家に出入りするようになり、当時の当主である近衛忠煕の信任を得ることになる。その後、安政元(1854)年に住職を弟の信海に譲り、自身は諸国視察の旅に出る。その際に全国の勤皇の志士らと交流する機会を持つようになり、近衛家とのパイプもあることから薩摩藩士らとも面識を持つことになる。
そのひとりが西郷隆盛だった。
月照は、島津斉彬が取り組んだ将軍継嗣問題や幕政改革の推進などにも協力していたが、安政5(1858)年4月の井伊直弼の大老就任によって雲行きが怪しくなる。
そんななか島津斉彬が7月に急死、9月から勤皇の志士らへの弾圧が始まる。これが安政の大獄であり、月照や西郷隆盛もその処罰の対象となった。
西郷隆盛は近衛家から月照の保護を頼まれ、薩摩にかくまうことを画策する。10月1日、西郷は月照を有村俊斎に託し、自身は先に下関から鹿児島に向かい、出迎えの準備を進めた。月照が福岡藩士の平野國臣にともなわれて鹿児島入りしたのは11月8日のことであった。
ところが、ようやく果たした薩摩入りであったが、藩庁は月照を保護せず日向への追放を命じる。そして、西郷もこれに随行した。
11月15日の夜半、平野國臣も乗船して錦江湾に出た船は、16日には大崎鼻沖に差し掛かった。と、このとき西郷は月照を抱きかかえて錦江湾に身を投じたのである。日向への追放が即ち死罪を意味していたことからの行動であった。すぐに平野國臣らが二人を引き上げたが、月照は帰らぬひととなってしまった。西郷は奇跡的に蘇生し、後に奄美大島へ潜居することになった。
月照は当時あった南林寺に葬られ、現在は南洲寺境内に墓がある。南林寺は西郷家の菩提寺でもあり、奄美大島から戻って鹿児島に滞在していた西郷は、おそらく月照の墓参りもしただろう。