奄美大島の南西端に位置する曽津高崎。その南側にある集落が西古見である。
大島海峡の西側の入口にあたり、集落はずれの高台からは加計呂麻島はもちろん、与路島や徳之島も望むことができる。
奄美大島の西側の港としても重要な場所であり、一番突端の集落であるにも関わらず、現在でも住居が密集している。
この集落に、西郷隆盛は文久2(1862)年の6月30日に到着している。その直前には屋久島の一湊にいた。
この時の西郷は、島津久光の下関での待機命令に従わなかった罪で、徳之島への遠島を命じられており、護送中に寄港したのが西古見だったのである。
西郷はこの年の1月に召還命令によって奄美大島から鹿児島に戻ったばかりであったが、まさかのとんぼ返りとなってしまっていた。
また、1月に大島から鹿児島へ向かう際に、宮都喜という龍郷の人をともなっている。宮都喜は後に島役人に取り立てられ、志村姓を名乗るようになる。
徳之島への流罪となった船旅にも従っており、西古見に西郷が到着した際にも一緒だった。ただ、宮都喜はここで西郷と別れ、西郷は同じ大島の龍郷に残した妻の愛加那の兄である龍富謙や親交のあった島役人の得藤長宛の手紙を託している。
この時託された手紙によって、愛加那は西郷が奄美大島の隣の島・徳之島に流されることを知るのである。
西郷が西古見に到着した少し後の7月2日、愛加那は長女の菊草を生み、生まれたばかりの菊草や長男の菊次郎を連れて徳之島へ渡ることになる。
西郷は、西古見集落で3泊くらいしたと伝わる。集落内には、その際に西郷が滞在したとされる家のあった場所が特定されているが、痕跡はなにもない。ただ敷地内に古い珊瑚の石垣があるのみである。
西郷は、この後加計呂麻島の阿世地を経由して徳之島の湾仁屋に7月5日ごろ到着するのであった。
西古見からの海と島並はとても美しい。
この美しい風景は、これからさらに遠くに流される西郷の目にどのように映ったのだろうか。