2017年3月 新納久脩の墓(鹿児島市冷水町)

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慶応元(1866)年に、英国へと派遣された藩費留学生の団長格の新納久脩(にいろひさのぶ)。通称は刑部(ぎょうぶ)。新納家は、島津家4代忠宗の四男である時久を祖とする島津支族という名家であり、その当主でもあった。戦国期の島津義久の忠臣、また豪胆な人物として知られる新納忠元は、新納家の分家の当主である。

さて、新納久脩は、天保3(1832)年に久仰(ひさのり)の嫡子として生まれた。父である久仰は、島津斉彬の元で家老に抜擢され、安政5(1858)年に斉彬が亡くなると、島津斉興の命によって集成館事業の閉鎖などを行った人物でもある。しかし、島津久光には仕えず、家督も文久3(1863)年には久脩に譲っている。

久脩は、島津茂久(忠義)のもとで軍役奉行に任ぜられて、洋式兵制の導入に尽力した。その成果は元治元(1864)年に禁門の変に生かされることになる。さらに慶応元(1866)年に大目付に就任し、引率者として英国に赴いた。留学生らが大学などで学問を身につけている間、五代友厚らと紡績機器の購入や、パリ万博への参加の交渉などを行ったりした。その際には英国にとどまらず、フランスやドイツにも足を延ばし見聞を深めている。

帰国後の慶応2(1867)年には家老に抜擢され、藩の洋学校である開成所を所管し、明治2(1869)年には藩政改革に従事するなどしていた。明治22(1889)年没。渡欧経験で得た想いを息子である次郎四郎に受け継がせるため、フランスへの留学を勧めてもいる。

新納家の墓がある興国寺墓地は、明治2(1869)年に廃仏毀釈によって廃寺となった曹洞宗の寺院の墓地。江戸期に活躍した様々な人物の墓が多数残されており、同じく英国に渡った長沢鼎の墓もある。ほかにも、通詞として活躍した汾陽家の墓や、歴史学者の伊地知季安の墓もある。新納家の墓は、墓地のなかでは上部の斜面にあり、桜島や市街地を美しく望むことができる場所に位置している。