今から150年前の慶応元年、藩費留学生のひとりとして英国へと向かった森有礼。初代文部大臣となり明治政府において活躍した人物は、この地に誕生した。
生まれたのは弘化4(1847)年のことで、藩校造士館で学び、16歳の時には薩英戦争に参加している。その後、洋学が学べる機関である開成所に通うことになり、ここでの成績の優秀さから留学生のひとりに選ばれた。時に19歳。若い有礼は外国の文化や制度など様々なことを学び、またイギリスのみならず、ロシアやアメリカにも渡り見聞を広めた。
日本の封建体制が大きく変化した明治元(1868)年に日本に帰国し、明治政府では当初、外国官権判事などの仕事に就くことになった。ところが、有礼の海外経験や本人の剛健な性格は政策にも影響し、士族が政治を司る明治政府において廃刀論を建議したため免官されることになった。しかし、その才能から再び外務省に勤務することになり、教育や社会制度を学ぶためにアメリカに渡り、「日本の教育」を著することになる。
日本においては外務関係の要職に就くことになるが、明治6(1873)年に福沢諭吉らとリベラルな思想を展開した明六社を結成した。
そして、明治18(1885)年の伊藤博文内閣において初代文部大臣となり、学校制度の改革を行うなど尽力し、さらに私財を投じて商法講習所(現在の一橋大学)を設立している。
しかし、独特の発言や行動が誤解を生み、明治22(1889)年の憲法発布式典の当日、官邸において国粋主義者から暗殺された。誕生地にある記念碑の碑文には、彼の死を惜しむ文章が刻まれている。