2015年4月 敷根火薬製造所跡(霧島市国分敷根)

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現在の鹿児島市を流れる稲荷川沿いの滝之上には、島津斉彬が藩主であった頃に利用されていた火薬工場があった。周囲を崖に囲まれた環境が火薬製造には適しており、また川があることから水車動力も得やすかった。

この滝之上の工場を本局として、薩摩藩はさらに火薬の製造を拡げるべく分局を開設する。それが文久3(1863)年のことである。場所は錦江湾沿いの敷根で、地形的に同じく川の周囲に崖があり、人家からもほど遠く、やはり火薬を製造するには適した場所であった。

この工場の動力も水車が用いられ、また火薬の原料となる硫黄は硫黄島(現在の三島村)産以外にも地元の霧島産も利用された。海が近いということも、製造した火薬の運搬や原料の運び込みに便利であったであろう。

生産された火薬は、後々戊辰戦争などで利用され、かつ明治政府もこの工場で製造される火薬を重宝した。明治初期までの鹿児島は、全国を代表する武器製造地域だったことになる。

しかし西南戦争に際して、その政府軍によって皮肉にも破壊された。しかも火薬ゆえに錦江湾からの艦砲射撃によって。

そのため、火薬製造が行われていた場所には、現在ほとんどといっていいほど遺構などが残っておらず、周辺の崖に囲まれた環境だけが当時をしのばせてくれる。ゆるやかな棚田が広がる川沿いに、工場があったことを示す記念碑があり、それが唯一の手がかりとなっている。