2016年10月 楠公神社(なんこうじんじゃ)跡(鹿児島市石谷町)

201610

かつてこの場所には、楠木正成を祀る楠公神社があった。

楠木正成は、河内国赤坂(現在の大阪府千早赤坂)を拠点に活躍した南北朝時代の武将である。後醍醐天皇のもとで足利尊氏らと対峙したが、建武3(1336)年5月に摂津国湊川(現在の神戸市兵庫区)において敗死している。ただ、南朝の後醍醐天皇に忠義を貫く姿勢から、特に幕末期、勤皇の志士らより崇拝されている。

楠公神社も文久元(1861)年9月4日、当時石谷奉行をしていた有馬新七が、神戸の広厳寺より楠木正成の木像を譲り受けて建立したといわれている。ただ、創建に関しては、石谷領主の町田久甫が広厳寺から譲り受けたものを、有馬新七らで協議して祀ったという説もある。どちらにしても幕末期の薩摩藩において、勤皇の志厚い有馬新七が関わったことは事実のようである。

さてこの楠公神社は、英国への派遣が決定した留学生らが、鹿児島城下から船出の地となる串木野郷羽島村へ向かう途中に立ち寄った場所でもある。一行が鹿児島城下を出発したのは、慶応元(1865)年1月17日のことで、その日に同社を訪れている。勤皇のシンボルでもある楠木正成を祀る神社への参拝は、英国行きへの決意とともに、海外で学べども日本人であることを決して忘れないとの思いも込められていたのかもしれない。

また、神社のある石谷郷は、留学生に選ばれた町田兄弟の出自である町田家の領地であった。留学生の一行は、参拝前に出水筋こと薩摩街道沿いの横井で昼食をとり、参拝後は伊集院の妙円寺(現在の徳重神社)を訪れている。

明治に入ると、楠木正成の木像は私学校に安置されることになり、神社などは取り壊されることになった。現在は宮之城にある楠木神社に木像は移されて、そこで祀られている。

この地の石碑などは地域の人々によるもので、神社があったことを伝えようと建立されたものである。その場へは、舗装されていない細長い参道が続いている。留学生らもこの土の道を歩いたのかと想像すると感慨深いものがある。