2016年12月 羽島鉱山跡(いちき串木野市羽島)

201612

いちき串木野市羽島。

慶応元(1865)年、英国へ向け出発した藩費留学生の船出の地として、地域の人々によって大切に顕彰されており、平成26年7月の「薩摩藩英国留学生記念館」の開館によって、ますますその名を高めている。

引率者を含めた留学生ら17人(ひとりは羽島で死亡)が渡航直前に過ごした羽島での約2ヵ月間は、風光明媚な土地柄を考えると充実したものであったに違いない。記念館は、羽島の海と山の美しさ両方を愛でられる海に面した場所に位置しているが、隣接する海岸には浸食された岩石が露出している。実はこの海岸の一部は、慶応2(1866)年から試掘が始まった羽島鉱山の鉱脈にあたるのである。

英国へ渡った者達のうち、最も鉱山に関心を持った人物は、やはり五代友厚であろう。五代は大阪に拠点を置き活動を始めた明治4(1871)年に大和国の天和銅山に関わったのを契機に、日本中の鉱山経営に携わる。それらを統括する機関として明治6(1873)年に弘成館を大阪の堂島に設立、鉱山の開発や買収に勤しみ、明治16(1883)年に、この羽島鉱山の開坑に着手することになる。

その際に大きく関わったのは祁答院重之という人物であるが、彼の妻は五代友厚の妹・信子であり、つまりは義理の弟である。五代は羽島鉱山の開坑に際して、当時のお金で750円の援助を申し出、ここで採掘された鉱石は、前年に開発を始めていた鹿籠金山(現在の枕崎市)へ送る計画であった。このようにして羽島鉱山の開発は本格化するが、直後の明治18(1885)年の9月25日、五代は東京の自邸において亡くなってしまう。

五代の手を離れた羽島鉱山は、明治37(1904)年に青化製煉工場が完成するものの、明治40(1907)年に工場は焼失、その5年後に三井鉱山によって買収された。今その名残が見られる薩摩藩英国留学生記念館横の鉱脈は、三井鉱山の開発によるものだが、時代を超えて五代と羽島をつなげていると思って眺めると感慨深い。