2017年1月 石谷西の石坂(鹿児島市石谷町)

201701

江戸時代、現在の鹿児島市石谷町は、英国留学生の学頭であった町田久成の実家である町田家の領地であった。ここには町田家の歴代当主とその家族が眠る墓地や、信仰の対象としていた熊野神社などが点在している。

そのなかでもアスファルトで舗装された道路の中央部に残されている石畳の坂道は、その光景からして特異なものとして映る。その石坂は、文久2(1862)年4月に発生した寺田屋事件において、同志打ちの上に亡くなった有馬新七が大きく関わるものである。

万延元(1860)年に石谷領主であった町田久成は、有馬新七を石谷奉行として招聘した。役割のひとつに石谷の青年達の教育があった。ちなみに有馬新七は元々石谷郷に隣接する伊集院郷の坂木家に生まれていて、石谷郷も馴染みの地域であった。

新七は、道場を建立して剣道の指導や夜学における訓育などを行ったという。その際に悪さをしたり、素行の宜しくない青年達に罰を与えることになった。そのひとつが石畳の構築である。抱えてもなかなかに持ちきれないような石を運ばせて道普請をさせる。なんとも熱き志を抱いた勤皇の侍である新七らしい罰の与え方といえよう。この道は伊集院と鹿児島を結ぶ街道の一部で、坂道に石を敷き詰めるのは、雨などによるぬかるみ対策としても有効であった。

新七の石谷における居宅は、この坂道を登った十字路の角にあったようだが、現在はたどることはできない。近年の道路改修により、かろうじて石畳の一部は残されることとなった。それでも、ひとりでは抱えきれないくらいの石が敷かれている様子を眺めているだけで、石谷の青年達の苦労と反省の念を感じずにはいられない。