長澤鼎は、慶応元(1865)年に薩摩藩が派遣した英国留学生のひとりで、最年少の13歳で選抜された。
英国到着後、他の留学生はロンドンの大学に入学したが、長澤だけは最年少ということもあってか、仲介した長崎の商人であるトーマス・グラバーの故郷であるスコットランドのアバディーンにある中学校に入り、優秀な成績を修めている。
その後、留学生の大半が帰国するなか、長澤は森有礼らとアメリカに渡った。
明治維新後、森有礼らは帰国し、長澤だけがアメリカに残ることになったが、カルフォルニアでぶどう園の経営に成功し、地元の商工会議所会頭に選ばれるなど異国の地で活躍する。
この記念碑が建立されている下荒田は、長澤が少年時代を過ごした場所で、明治43(1910)年、本人の強い希望によって荒田町53番地(現在の下荒田)に戸籍を移している。
長澤はこの下荒田の地へ三回戻っている。初めての鹿児島への帰郷は、明治30(1897)年のことで、イギリスに出発してから実に32年ぶりのことであった。それまでの長澤は、故郷に帰ることを夢に見るくらいであったという。
さらに、大正2年と大正12年にも鹿児島に帰郷している。ぶどう園経営の習慣なのか、朝から裸足で庭の草むしりをしていたそうだ。また、鹿児島市街地を散歩し、しんこ団子屋を見つけては、その場で買い求め、むしゃむしゃと食べていたという。
他にも、親戚と飲食をした際に、飲食代を支払うことになり、鹿児島では当時一般的ではなかった小切手を出し、支払いができなかったという話も残している。そして、鹿児島で話す長澤の言葉は、半分が鹿児島弁、半分が標準語、そして時々英語であったという。まさに長澤の人生が反映されたようなエピソードといえる。