1930年代、市営飛行場(のちの旧鹿児島空港)・中央市場の建設・天保山橋の架橋など、近代都市・鹿児島のインフラ整備は急速に進んだ。
戦後も長く活用されたこれらの起草をしたのが、当時の岩元禧(いわもと き)市長である。
市庁舎本館の竣工もその1つであった。
1889(明治22)年の市制施行の際、役所は旧県興業館に開設され、3年後に現在の市立美術館の地に新築移転した。
その後、大正末から老朽化による庁舎新築が議論されるようになっていたが、世界恐慌などで進まない計画を岩元市長が着工に漕ぎ着け、1937年に竣工した。
設計したのは国会議事堂の建設にも携わった大蔵省営繕管理局の技師。
市会議場は当時のまま残り、現在は講堂として利用されている。
火事の発生地点をいち早く知るために、塔屋には消防関係者が詰めていた。また、将来の増床を見越した設計を採っていたため、1959年に3階部分を増築して現在の姿になった。
この敷地は幕末には藩の米蔵・金蔵が置かれていた。
西南戦争の末期には政府軍の屯営地となり、山県有朋が薩軍への最後の総攻撃指令を出した。
本館の敷地裏手に「明治十年戦役官軍屯営地跡」の碑がひっそりと建つ。
士族授産施設や専売局が置かれていたこともある。
鹿児島の産業史にとりわけ中心的な役割を果たしてきた土地といえる。