太平洋戦争末期、鹿児島市はたび重なる空襲の攻撃を受けた。
その被害を避けるために、市役所が一時「移転」していたのが1918年完成のこのトンネルである。
水源地側の入り口に「碧泉通 大正八年十月 市長 山本徳次郎」の額面がかかっている。
自動車用にしては小さく、歩行者や自転車が1人ずつすれ違えるほどの寸幅しかない。
もとは市街地への上水道整備のための水源地工事の際に、資材や工事関係者が通るためにつくられた。
鹿児島市の近代水道事業は、ここ上之原配水池を中心とする施設の着手によって幕を開けた。
戦時中に市役所が移転した際は、トンネル途中にさらに横向きに交差するトンネルを掘り、重要書類の保管と市の業務をおこなっていた。湿気で傷む書類も多く、乾燥作業に一苦労していたという。
現在は地域の人びとの生活道路として利用されている。
なお、当時の市長だった山本徳次郎は、増加する人口に対応するために市街地の拡大を実現した人物である。
現在の松原町から南林寺町に広がっていた南林寺墓地(約9万基)の改葬移転を完了させたことでも知られる。