大河ドラマ「篤姫」の第40回放送「薩摩燃ゆ」では、薩英戦争での城下焼失を嘆く小松帯刀の姿が印象的だった。
実際にその戦いの最前線となったのが、祇園之洲・弁天波止場・大門口など錦江湾沿いの各地に配置された洋式砲台である。
天保山の地は19世紀中頃の天保年間に甲突川の浚渫で誕生した。
鹿児島城下の南端で錦江湾につき出た地形となったため、海からの守りを固める上で、最も早く敵艦と対峙する要塞とされた。
1853(嘉永6)年、島津斉彬により11門の大砲を備えた天保山砲台が置かれる。
1862(文久2)年、兄・斉彬の幕政改革への遺志を、久光は一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の政事総裁職への就任という形で成功させた。
江戸を発った彼の行列は、生麦で行列に乗り入れた英国人を殺傷した。その賠償をめぐる交渉が決裂し、翌年の旧暦7月2日正午、天保山砲台が火蓋を切り薩英戦争の開戦となるのである。
城下町や集成館の工場群を焼失するなど被害を受けながらも善戦したが、薩摩は攘夷から英国との和解へ政策を転換し、一気に薩長同盟を経て討幕の指揮を執る。
付近は松林の残る都市公園となったが、砲台の台座の一部が残るほか、一角に斉彬の近代化事業を推進する財政的基盤を築くことになった家老・調所広郷の像もある。