川上町と下田町の境付近に位置する関吉地区には、稲荷川の上流である別名・棈木(あべき)川から引かれた全長8㌔におよぶ疎水溝の分岐点(取水口)が、今もはっきりと残されている。
もとは享保年間(1716~1736)に磯の仙巌園の庭内泉水に用いるためのものだったが、幕末に島津斉彬が進めた集成館事業を本格化させるため、水車動力源の導水として再整備され使われた。
斉彬は、蒸気機関の実用化に目処が立たない状況をみて、在来の水車技術での代替を図ったのである。
溶鉱炉の水車鞴(ふいご)、大砲の鑚開(さんかい)などで活躍したが、集成館事業の以前から、水車動力は藩内各所でみられた。
代表的なものが国道10号の磯トンネル南側にあった滝之上火薬製造所で、稲荷川の水力を使い火薬を製造していた。
このような産業的背景が斉彬の疎水溝活用への発想に結びついたといえる。
今でも、取水口からしばらくは水田地帯を流れて灌漑用水として使われており、一本の水路として追跡できる。
途中、住宅地開発のためいったん途切れてしまったが、雀ヶ宮付近から再びその痕跡が現れる。
さらにその先は隧道を経て、吉野のシラス台地の下に位置する磯に達していた。