鹿児島港は今も昔も賑わう姿は変わらない。
『天保城下絵図』を眺めると、篤姫の暮らした今和泉島津家浜屋敷(いまの石橋記念公園)や、隣接して芝居小屋に櫓太鼓があり、磯浜近くの桜谷に向かって花見舟が行き交う様子がひときわ目をひく。
近世から近代への時代の転換期を迎えると、港の整備も着々とすすめられた。
新波止は、島津斉彬の軍備拡張政策により1848年に造営され、溶結凝灰岩を積石に用いた。ちょうど鶴丸城の正面に位置していたことから、砲台が置かれ、薩英戦争では英国艦隊と対峙した。
さらに、一丁台場(1872年頃)と遮断防波堤(1904年)の完成、1907年には神戸港などとともに重要港湾に指定されるなど、近代日本の主要港へと変貌をつづけた。
1985年以降、北埠頭の埋め立てがすすみ、現在は、かごしま水族館に面した護岸として新たな役割を担っている。
薩英戦争砲台跡と明治天皇行幸所船形台場の両碑や、築造に従事した石工が防波堤に刻んだ文字が往時をしのばせてくれる。