1840(天保11)~1897(明治30)年。島津久光の長男として生まれる。
1858(安政5)年、伯父にあたる島津斉彬の遺言をうけて12代藩主の座につく。
その後、大久保一蔵(利通)を筆頭に下級武士の面々は誠忠組を名乗ることを許され、小松帯刀ら上級武士と団結して幕政改革・倒幕維新へとむかう契機をもたらしたといえる。
1863(文久3)年、薩英戦争で被害をうけた集成館事業の再建に取り組み、1865(慶応元)年に洋式の機械工場を操業(現・尚古集成館本館)。
1867(慶応3)年には日本初の洋式紡績工場である鹿児島紡績所をおこす。15代将軍徳川慶喜が大政奉還した後、議定についた。
1869(明治2)年、小松帯刀らの進言を受けるかたちで版籍奉還をおこなう。また、同年には新政府への参加要請を拒み続ける西郷を日当山温泉に訪ね、藩参事、そして新政府参議就任への道筋をひらいた。
西南戦争後、県内産業や経済の不振を打開するには、近代教育制度の定着が重要と考え、1884(明治17)年に「造士館再建の願」を提出し、私財を県に寄付。同年12月に県内初の中学校・県立中学造士館が開校した。