2010年1月 大久保利通(鹿児島市西千石町)

201001

1830(文政13)~1878(明治11)年、鹿児島城下の最下級士分(御小姓与)の生まれ。

島津斉彬の死後、藩の実権をにぎった久光に抜擢され、1863(文久3)年には最高幹部の側役につく。

薩英戦争後の和平交渉、薩摩藩留学生の英国派遣、薩長同盟締結、王政復古の大号令による明治新政府の樹立と、幕末維新期の最前線で奔走した。表舞台には盟友の西郷がたち、大久保は実務に徹し、戊辰戦争や廃藩置県といった難局を乗り切った。

西南戦争直前、西郷が参加していることを知ると、直接会談しようと鹿児島行きを臨むが、伊藤博文らに反対され叶わなかった。

いわゆる征韓論で多くの鹿児島士族たちが政府を去るなか、参議兼内務卿として西郷従道や川路利良らとともに新政府の中枢で内政の充実に腐心した。

1876年、福島県郡山を見聞。

1878年3月、猪苗代湖から導水する安積(あさか)開拓を国営開拓第1号事業と決した2か月後、東京紀尾井坂で暗殺される。

1889年、士族授産と殖産興業を礎に富国強兵を図った利通の顕彰碑が建てられ、別名・大久保神社とよばれている。

1979年、中村晋也氏の制作で没後百年を記念して置かれた。

フロックコートが風に揺れる姿をした像の足もとには、同じく遭難した馬車夫と馬のオブジェがある。