1835(天保6)~1885(明治18)年。鹿児島城下の城ヶ谷(現在の長田町)に生まれる。
父は藩の儒官で『三国名勝図会』を編纂した五代秀堯。
13歳のとき、島津斉彬から依頼された世界地図の模写を父に代わっておこない地球儀を作り、世界情勢への関心をより高めることになった。
1857(安政4)年、長崎へ赴き、幕府が設けた海軍伝習所に学ぶ。
その間、岩崎弥太郎、坂本龍馬、高杉晋作をはじめ、亀山社中の援助に努めた家老・小松帯刀など藩内外の人びとと親交を深めた。
1865(慶応元)年、寺島宗則(のち外務大臣)らと欧州派遣留学生として蒸気船や紡績機械を購入し翌年帰国。
長崎で薩摩藩の商事業務を統括する御小納戸奉行格となり、グラバーや岩崎、小松の支援をうけ1868(明治元)年に長崎港の一角に日本初の洋式ドッグを竣工した。
長崎市小菅町の入り江に、曳揚機械の置かれた赤煉瓦製の倉庫や海に伸びるレール等が残されている。
この地は、今年1月に世界文化遺産の暫定リスト入りした「九州・山口の近代化産業遺産群」の構成遺産のひとつに数えられている。
その後実業界に転じ、1878(明治11)年に大阪株式取引所を創設、同年、大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)の創設および初代会頭として商標条例の施行や鉄道敷設など大坂経済の衰退防止に努め、「大阪の恩人」と呼ばれた。
大阪商工会議所、大阪証券取引所にも銅像がある。