2009年9月 島津斉彬(鹿児島市照国町)

200909

1809(文化6)~1858(安政5)年。

10代藩主・斉興の嫡男として江戸薩摩藩邸に生まれる。

曾祖父・重豪とともに1826(文政9)年にシーボルトと会見するなど、海外の情報や技術に深い関心をもつ。

斉彬が藩主の座につくのは1851(嘉永4)年と遅く、その間に藩内ではモリソン号事件、隣国ではアヘン戦争と外国の脅威が迫っていた。

彼は日本を西欧に対抗できる国にするべきと唱え、紡績・電信・印刷・パンの製造から軍艦・大砲・紡績と在来技術に西洋技術を導入した近代化を推進した。

それらを磯地区にまとめて操業を開始したものを集成館事業とよぶ。

軍事用のアルコールを米焼酎の転用から芋焼酎の大量生産に切り替えたり、薩摩切子や白薩摩を製品化したりと、殖産興業の幅広い分野に力を注いだ。

1858(安政5)年、次期将軍に一橋慶喜を推すものの大老・井伊直弼は徳川慶福(家茂)を推し反対派を弾圧した(安政の大獄)。これに対し、約5千の兵を率いて上洛を計画。しかし、7月8日に天保山調練場での演習観覧中に高熱で倒れ、16日に急逝した。

『島津斉彬言行録』に「君たる人は愛憎なきを専要とするものなり」とある。

お由羅騒動の際に反斉彬派の立場にいた家臣に報復人事をおこなわず、さらに最下級の城下士分である西郷吉之助や大久保正助らを見出したことを裏づける一節である。

斉彬の遺志は、弟の久光や家臣たちに引き継がれ、明治維新の原動力となった。