1704(宝永元)~1755(宝暦5)年。鹿児島城下の上級家臣の家に生まれた。
20代を江戸の薩摩藩邸で過ごし、のちに家老職にすすむ。
1753年、薩摩藩は幕府から「濃州・勢州・尾州川々」の普請事業を命じられた。すでに66万両の借金があり、さらに工費の40万両を準備する必要があった。
平田は財務担当の勝手方家老であったことから、治水工事の総奉行に就任する。
上方商人に黒糖の専売権を担保にした融資を受け、また藩内の倹約や増税で資金を調達し着手した。
木曽三川と呼ばれる木曽・長良・揖斐川は大雨のたびに氾濫していた。つまり梅雨や台風による洪水発生の時季を避け、作業を急ピッチで進める必要がある。
幕府は容易に専門の技術者を雇うことを許さず、工事は難航を極めるも1年半を経て竣工を果たす。
平田は検分を終えた3日後に没。多くの犠牲者を出したことや、予算を大幅に超えた工事の責任を負っての自刃であった。
1900(明治33)年、最難関工区の油島にある千本松原に、山県有朋総理の銘による「宝暦治水之碑」が建てられた。
これを契機に、岐阜で平田の功績を再検証する動きが広まった。
薩摩義士の名付け親は、麻布学館の創始者・岩田徳義。
城山入口にある薩摩義士の碑は1920年に建立され、以降、地元でも平田らの存在が知られるようになった。
1971年、鹿児島と岐阜は姉妹県盟約を締結。平田の事績は両県の活発な交流活動として今も生き続けている。