国内最後の内戦となった西南戦争以降、明治政府は本格的な富国強兵の政策を推し進めた。
そのひとつにあげられるのが、1873年の徴兵令をもとに、全国各地を拠点とした陸軍歩兵連隊の創設である。
1897(明治30)年、鹿児島郡伊敷村に、熊本を本部とする第6師団所属の歩兵第45連隊がおかれた。
郷土部隊の性格をもち、多くを鹿児島出身の青年で編制された本連隊は、日露戦争・満州事変・第二次世界大戦と戦果をあげ、日本屈強と評された。
新人歩兵の訓練には、約50kgの背嚢を背負い伊敷から国分までの走行や、伊敷の高台での射撃などがあり厳しさを極めたという。
大戦中は、当初中国の長沙作戦などにあたっていたが、南方戦線の悪化にともない急遽、1943年にブーゲンビル島に上陸。翌年、米国軍と全面衝突し、連隊のうち8割の死傷者を出す壮絶な最後を迎えた。
45連隊の正門は「営門」とよばれ、現在は県立短大の正門として使用されている。
近くには栄門通り商店街や栄門公園など、「営む」から「栄える」に漢字を変え、いまもその名は地域に息づいている。