豊作を祈願する田の神信仰は全国にみられるが、田の神の石像をつくる風習は、鹿児島県と宮崎県南部の旧薩摩藩領のみにみられる。
薩摩藩には、加工しやすい火山灰由来の溶結凝灰岩が分布していたことや、一向宗(浄土真宗)が禁止されていたことで、神仏像を祀る対象が庶民に身近な稲作に向けられたといった理由が考えられる。
さつま町紫尾に宝永2年(1705年)の銘のある像があり、これが現存する最古のタノカンサァである。
新村の田の神像は、梅ヶ淵橋のたもとにあり、高さ104cmの自然石に浮き彫りされている。
像だけの高さは64cmで、右手にメシゲ(しゃもじ)、左手にお椀を持ち、頭には米の蒸し器である甑(こしき)をかぶっている。
背面には、「安永七 三月吉日二才中」とあり、1778年に地元の若者らにより建立されたことがわかる。
当時、伊敷地域は、鹿児島城下にほど近い、「近在」と呼ばれる農村地帯であった。
1950年、鹿児島郡伊敷村が鹿児島市と合併して以降、次第に市街地や住宅地が拡大していき、田園風景は少しずつ減っていった。
かつては毎年10月17日に田の神講があり、タノカンサァに収穫を感謝する宴が開かれていたという。
1989年、鹿児島市の有形民俗文化財に指定されている。