2010年4月 集成館旧機械工場(鹿児島市吉野町)

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2009年1月、本建物をふくむ「九州・山口の近代化産業遺産群」が世界文化遺産の暫定リスト入りを果たした。

非西洋地域における本格的な近代化事業が展開されたこの地は、鎖国の時代から琉球や中国からいち早く西欧列強の情報が伝わり、在来技術と融合した技術移入が試みられたのである。

集成館事業は、11代藩主島津斉彬が1858(安政5)年に急逝したのち縮小され、さらに1863(文久3)年旧暦7月の薩英戦争では砲撃により壊滅的な被害を被った。しかし、このことは逆に薩摩藩に西洋技術導入の必要性を痛感させることとなった。

次代の忠義は、同年10月にいち早く集成館の復興に着手し、1865(慶応元)年にそのシンボル的存在となる機械工場が竣工した。

石造の洋風建築として日本初のアーチが施されるなど、石橋築造の在来技術をもとに日本人の手で造られた、現存する県内最古の石造建築物でもある。

廃藩置県後は、陸軍省の大砲製造所や西南戦争時の薩軍による占拠、民間払い下げなどの変遷をへて、明治30年代から磯島津家集成館と称して鉱山用機械の製造をおこなっていた。

1915(大正4)年に約50年の工場としての役割を終え、1923年5月から博物館(尚古集成館)となる。

10分の1サイズに再現された反射炉模型などが展示され、集成館事業の実像を体感できる。