鶴丸城跡には、記念碑をはじめ御楼門跡などの遺構が残されている。そのなかには、かつてここを校地とした旧制七高に由来するものも多い。
七高の起源は、1773(安永2)年に8代藩主の島津重豪が設置した藩校造士館にさかのぼる。
廃藩置県とともに藩校も廃止されるが、「造士館」の名は、1884(明治17)年創立の鹿児島県立中学造士館に引き継がれ、1901年には全国で7番目の官立高校である第七高等学校造士館が誕生するに至った。
磯の異人館(旧鹿児島紡績所技師館)を移築して本館とするなど、島津家の全面的な支援のもとにナンバースクールとして発展していく。部・班活動もさかんで、蹴球部・野球部・馬術班・滑空班(グライダー部)・音楽班などが特に活躍を知られていた。
1915(大正4年)制作の寮歌「北辰斜めにさすところ」は、いまでも後身校である鹿児島大学の式典やサークルのなかで歌い継がれている。
七高生久遠の像は、七高開校85周年を記念して七高同窓会により1985年に建立された。3名の学生像は、それぞれが知、情、意を象徴する姿とされる。このほか、七高由来の竜舌蘭や楷といった記念植樹が往時の面影を感じさせる。