この地にはかつて、万徳山千眼寺があった。
8代藩主島津重豪が、1805(文化2)年に荒田からこの地に移し再興したものの、明治初年の廃仏毀釈により壊され、現在は個人宅内に智福和尚の石像が残るなど往時の面影がわずかに残されている。
その一つが、薩英戦争の際に本陣が置かれたことを伝える銘文碑である。
1862(文久2)年、兄・斉彬の幕政改革への遺志を、久光は一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の政事総裁職への就任という形で成功させた。江戸を発った彼の行列は、生麦で行列に乗り入れた英国人を殺傷した。その賠償をめぐる交渉が決裂し、翌年の旧暦7月2日正午、天保山砲台が火蓋をきり薩英戦争の開戦となった。
薩摩藩は事前に藩士3万5千名が城下に詰め、城下の住民には避難の命令が出された。本来の本陣を鶴丸城に構えていたが、海岸に近く砲撃などの被害を想定してここ千眼寺に移した。久光とその子の12代藩主忠義を囲むように、大久保一蔵・小松帯刀らが指揮に当たったのである。
城下町の一部と集成館工場群の焼失という大きな代償を払ったものの、和解交渉を通じて薩摩・英国は急速に接近していく。
集成館事業の再建、藩費英国留学生の派遣、ウィリアム・ウィリスの招聘といった事跡から、両者が武力にとどまらない結びつきを深めていたことがわかる。