現在、桜の名所として、鹿児島市街地や錦江湾、遠くは開聞岳を遠望できる多賀山公園は、1053(天喜元)年に長谷場永純により、薩摩・大隅・日向で初めての城として築かれたと伝わる。
ここは、東側を錦江湾に接し、他方は急峻なシラス台地の斜面で、天然の要害となっており、山城には絶好の条件をそなえていた。
後醍醐天皇による建武の親政が失敗に終わると、全国各地の武士は南朝と北朝に分かれて戦乱を繰り返すようになった。薩摩国の守護職を務めていた島津氏は、北朝方につき、出水から鹿児島への進出により領国を平定することを目指した。
ところが、東福寺城は南朝方の矢上氏が拠点としており、数次にわたって戦闘が繰り返された。暦応4(1341)年、5代当主・島津貞久は東福寺城を手中におさめ、現在の上町地域に守護町が形成されていった。また、子の6代・氏久がここから大隅国まで勢力を伸ばすきっかけとなった。
その後、ここが手狭となったことから、1387(嘉慶元)年に稲荷川を挟んだ北西側の丘陵に清水城が築かれ、以降、東福寺城は「後詰めの城」として鶴丸城築城まで利用された。
現在でも、一定の区画ごとに造られた平坦地である曲輪といった面影をとどめている。