向田邦子居住跡地は、鹿児島三育小学校を左手に見ながらせまい上り坂をすすんだところにある。
向田邦子(1929~1981)は、1939(昭和14)年1月から1941年3月まで鹿児島で過ごした。
ここにあった社宅で暮らした様子は、『薩摩揚』『記念写真』などの作品に登場する。納戸で直木三十五『南国太平記』を愛読していた、少女時代の邦子にとって、のちに直木賞を受賞(1980年)することになろうとは知るべくもないが、興味深いエピソードである。
山下小学校に転入した邦子が、登下校の途中にある薩摩揚や饅頭屋に惹かれたこと、裸足での冬季城山登山、照国神社の境内でおこなわれた運動会など校内行事に打ち込んだことは、その後に鹿児島を「故郷もどき」と呼ぶようになった原体験と言えるだろう。
1979年、38年ぶりに鹿児島を訪れ、空襲により一変した街並みや、埋め立て開発で姿を消した旧天保山海水浴場の姿に驚いている。「無いものねだり」の旅行にあって、「結局変らないものは、人。そして生きて火を吐く桜島」と記した(『鹿児島感傷旅行』所収)。
当時は、この地から桜島の裾野までを望めたというが、いまは高層建築が増えたため頂上付近がかろうじて見える。居住地跡の石碑は、町内会有志によって建てられた。