全国に知られる薩摩藩の剣法の示現流。
その創始者である東郷重位ゆかりの地が国分市街地の隣接地にある。
現在は、市街地から霧島神宮方面などにぬける県道60号の一部であるが、その道路が開削される以前は鳥越坂と呼ばれていた。
「国分郷土誌」には、その鳥越坂は示現流のふるさととして記載されている。その根拠が東郷重位の物語であり、若き頃に修練を重ねた場所とされている。
東郷重位は、永禄4(1561)年に瀬戸口藤兵衛尉重為の二男として生まれ、後にルーツである渋谷東郷家の姓である東郷を名乗ることが許されている。重位は島津家に仕え、天正6(1578)年に島津義久と義弘と日州高城における大友勢との戦いを初陣としている。
その後、島津義久に仕えた重位は国分に居を構えるようになるが、その場所が鳥越坂付近であった。
天正15(1587)年7月に義久の上洛に従い、翌年の7月から12月まで京都に滞在して天寧寺の僧善吉から剣術を学ぶ。
帰郷した後、重位は僧善吉から学んだことを国分の地で自ら修練する。その場所も鳥越坂の大木や自宅の庭にある柿の木であったとされている。
慶長9(1604)年、初代藩主となる島津家久の命により、鹿児島の内城において、それまで三州の武士に支持されていた体捨流の東新之丞と立ち合うことになった。その立ち合いに勝った重位は、家久から鹿児島城下の屋敷を拝領し、家臣たちの剣術の育成にあたることになる。ちなみに示現流の名は、後に内城跡に大竜寺を建立する南浦文之によって提案されたもので、島津家久と重位の同意によって決定した。
このように東郷重位が鹿児島城下に転居するまでの修業の場は、まさに国分の鳥越坂といえそうだ。
現在は、坂の場所に若宮神社が建立されている。御祭神は玉依姫や応神天皇などで、延暦2(783)年に創建された際には向花にあったが、慶長年間に島津義久によって現在地に移されている。