種子島の海の玄関口である西之表港から車で約5分の場所に、法華宗の寺院の日典寺がある。
種子島は江戸時代、領主である種子島家が法華宗を信仰していたことから、当宗派の寺院が島内に点在している。日典寺の名前は、種子島に法華宗を最初に広めようとした日典に由来している。
その寺院の境内に第25代横綱西ノ海の顕彰碑がある。
西ノ海は碑のある場所近くの川迎集落で、明治13(1880)年に牧瀬休八として生まれた。幼少期から体が大きかったという。
島内の相撲大会などで頭角を現し、その強さは角界にも伝わっていた。
明治31(1901)年、鹿児島巡業を行っていた鹿児島出身の力士・逆鉾が休八に角界入りを勧め、翌年には井筒部屋入門となる。井筒部屋における厳しい稽古に耐えた休八は、明治33(1903)年に初土俵を踏む。最初の四股名は星甲で、後に錦洋と改めた。
そして苦節16年、大正5(1915)年、実に36歳の時にようやく横綱に昇進したのであった。第25代横綱西ノ海を襲名し、また西ノ海嘉次郎と名乗るようになる。ちなみに井筒部屋の横綱西ノ海としては、二代目にあたる。
その際の身長は188センチで、体重は120キロであったという。その後大正7(1917)年まで横綱を務め、38歳で引退している。
引退後は井筒親方として、部屋の後輩たちへの指導はもちろん、相撲協会においては検査役と取締役として活躍する。
しかし、昭和6(1931)年に協会内の不正事件が発生し、その責任を負うように協会を辞任。さらには自殺するという悲劇が襲う。享年51歳。
戦後、西ノ海を慕う地域の人々や井筒部屋関係者、さらにはファンらによって顕彰碑が建立された。まさに、横綱としての風格を感じさせる顕彰碑は、地域をやさしく見守るように立っている。