元和5(1619)年7月21日、島津義弘は加治木において亡くなった。
その後、亡骸は加治木に埋葬されずに、島津本宗家の菩提寺である鹿児島の福昌寺へと運ばれることになった。亡骸が加治木から鹿児島へ向かうのを送り届けた後に、家臣らが加治木の実窓寺川原において殉死した話は有名である。
福昌寺は一時、明治2(1869)年の廃仏毀釈の際に廃寺となるが、墓地だけは当時の場所に残った。しかし寺自体は、明治28年に薩摩川内市の向田に再興されて現在に至っている。
義弘の墓は、当時の墓地の一角にあり、周辺には兄である義久や父の貴久の墓もある。さらに、義弘の夫人や朝鮮半島で亡くなった息子の久保の墓も隣接してある。
こうした戦国期の墓は、江戸期の藩主らの墓とは別の区画にまとめられている。そのためか、義弘の三男である初代藩主の家久の墓は、義弘の墓とは少し離れた山際にある。
さて、その福昌寺の創建は応永元(1394)年のことで、7代島津元久によるものであった。
総持寺の末寺であることから曹洞宗で、山号は玉竜山。島津氏の菩提寺ということもあり、歴代の当主から保護されて、最盛期には寺中に1500人もの僧侶が居住していたとされている。
戦国期の逸話としては、天文18(1549)年に鹿児島に到着したザビエルが、当時の住職である忍室と交流したことが知られている。
またルイス・フロイスは著書「日本史」の中で、福昌寺を「日本国において最も格式の高い寺院で、そこには100余名の仏僧がおり、多額の収入を有していた」と記述している。義弘の父である貴久が元亀元(1570)年9月に、谷山郡福本名の水田を寄進した記録もあるように、島津家の信仰はこの時代も篤かった。
このように、戦国期にも隆盛を誇った福昌寺にある義弘らの墓。
戦国時代を島津家が戦い抜いたからこそ、今日我々が目にすることができるともいえるが、それを思えば墓自体の規模などはわりと質素で、他の当主らと同じ宝筐印塔である。
それでも格式や威厳に満ちた空間であるので、是非一度足を運ばれてはいかがだろうか。