川内川の河口に位置する久見崎地区では、毎年盆踊りが披露される。
その歌詞は「御高祖頭巾に腰巻羽織。亡夫も見て賜れ 眉の露 切って供えたみどりの髪は 今日の逢瀬を待てばこそ 盆の十四日 踊らぬ人は目蓮尊者の 掟にそむく」とある。
この盆踊りは想夫恋とも呼ばれ、現在は地元の婦人会の方々によって伝えられ、男物の羽織を着て松林のなかで踊られる様は厳かである。この踊りの背景には、慶長2(1597)年にこの地から朝鮮半島へと出陣した島津義弘ら軍勢の家族の思いが込められている。
久見崎港は川内川の河口の左岸に位置し、現在は漁港としての役割を担っている。
慶長年間には現在よりも内陸部に湾曲した入江があり、そこが船溜まりとして機能し、軍船なども寄港できる大きさであったとされる。川内川の河口は東シナ海という外洋に接しており、朝鮮半島に渡る際の前線基地であった名護屋城(現在の佐賀県)に向かうには、薩摩国において適した港とのひとつだったといえるだろう。
さて、島津義弘は、ここから出航する直前には帖佐(現・姶良市)にいた。朝鮮半島への出陣は文禄の役に続いて二度目であり、また義弘にとっては息子の久保を失ってからすぐとなる出陣でもあった。
義弘は慶長2(1597)年の2月21日帖佐を出発し、隈之城(現・薩摩川内市)にしばらく滞在。ここで、兵馬や食糧を調達する作業を行っていたとされている。そして、3月28日に約50船で名護屋城に向かって久見崎港を出陣した。
その際の兵数は約1万人とされ、久見崎港には船のみならず、それらを修繕したり造船したりする人々も同時に多数滞在したと考えられる。当時の賑わいと混乱は相当なものであったろう。
ちなみに、義弘の甥にあたる島津豊久も約800人の兵と共にこの港から出陣している。
現在ののどかな漁港の雰囲気からは、当時の喧騒や出陣の緊張感を想像することは容易ではないが、冒頭の踊りに触れてみると、少し変わってくるかもしれない。