湧水町の栗野市街地の東北に位置する標高約253メートルの小高い丘は、島津義弘が天正18(1590)年に飯野城(現在のえびの市)から移ってきた松尾城跡である。
城の北西には川内川が流れていて、天然の掘の役割をしており、また城の本丸跡からの南西方向の眺望は頗る開けていることから、山城として最高の立地といえるかもしれない。ただ、築城は義弘によるものではなく、鎌倉初期に栗野院の地頭であった中原氏とされている。また、栗野の地が島津氏の勢力下となるまでは、真幸院の在地領主であった北原氏が居城していた。
さて、松尾城跡は、山城としては珍しく石垣が施されていて、そしてそれらは現在も保存されている。
これは義弘が飯野城から移る際に、太田武篇之介という人物に改築を命じた時のものとされ、この人物は、徳川家康が入る前の江戸城を築いた太田道灌の子孫ともいわれている。
石垣が施されているのは、本丸の出入り口である虎口と呼ばれる場所であり、約500個の野面石が、総延長52メートルに積み上げられている。
その上に位置する本丸の周囲には、低木の「しゃしゃんぼ」が植えられている。
これは義弘によって本丸の目隠しになるようにと植えられたものとされている。「しゃしゃんぼ」には小さな紫色の丸い実がつき、現在でも訪れる人々を楽しませてくれる。
山城は発掘調査なども入念に行われていて、二之丸跡からは、須恵器の皿や椀、少量の磁器などが発掘されている。
また珍しいのは、現在は湧水町の老人福祉センターとなっている御厩城跡から「糸巻形トチン」が発見されたことである。
これは製陶を行う際に使用するもので、義弘が文禄の役から帰国した際に連行してきた朝鮮陶工らに、松尾城においても窯を築かせていた可能性を示すものでもある。
今後のさらなる検証によって、栗野の地が薩摩焼の発祥といわれる日がくるかもしれない。松尾城の魅力がさらに広がる発見といえそうだ。